第32話 鍵屋の辻
寛永十一年(一六三四年)。
江戸の町は、殺気立った空気に包まれていた。
岡山藩主・池田家の家中で起きた殺人事件の犯人、河合又五郎が江戸へ逃亡。彼を、幕府の直参旗本たちが「男の意地」として匿(かくま)い、追っ手である被害者の弟・渡辺数馬らと一触即発の状態になっていたのである。
大名家対旗本の抗争に発展しかねない事態。
江戸城・西の丸にて、左大臣・松平秀親は冷徹な裁定を下そうとしていた。
「……又五郎も、それを追う数馬も、どっちもどっちだ。江戸の治安を乱す『野良犬』は、双方捕縛し、遠島(流罪)に処せ」
秀親にとって、個人の恨み(仇討ち)などで社会秩序が乱されることこそが悪であった。
しかし、これに噛み付いたのが、伏見城主・松平忠親であった。
「父上、お待ちください! 武士にとって仇討ちは最高の義! これを禁じ、処罰すれば、天下の武士は幕府に誇りを奪われたと絶望します!」
忠親は、数馬の助太刀をする剣豪・荒木又右衛門の武名と忠義を知っていた。彼らの志を、法だけで押し潰すことに耐えられなかったのだ。
***
秀親は、書類から目を離し、冷ややかな視線を息子に向けた。
「……忠親。お前はまだ『武士』の気分でいるのか。我々は『統治者』だ。……まあよい。ならば賭けをしよう」
秀親は、無慈悲な条件を突きつけた。
「追っ手の数馬と又右衛門に、又五郎を討たせてみせよ。ただし、場所は江戸の外、伊賀の国とする。……もし仕損じるか、騒ぎが大きくなり民に被害が出れば、池田家は改易、荒木らは打ち首とする」
成功すれば称賛、失敗すれば破滅。
忠親は、ギリギリの条件を呑んだ。
「……承知いたしました。私が裏で手綱を握り、見事な『本懐』を遂げさせてみせます」
***
忠親は直ちに動き、伏見の配下を使って又五郎一行を伊賀・上野へと誘導した。
そして十一月七日。
伊賀国・鍵屋の辻。
待ち伏せていた荒木又右衛門と渡辺数馬は、河合又五郎の一行を急襲した。
「天下の剣豪」と謳われた又右衛門の剣が唸る。世に言う「三十六人斬り」(実際は数人だが)の凄まじい死闘の末、数馬は見事、兄の仇である又五郎の首を討ち取った。
報告を受けた忠親は、拳を握りしめて安堵した。
「……やったか。これで武士の面目は保たれた」
この仇討ちは「天下の美挙」として称賛され、家光も又右衛門らを激賞した。世論は、仇討ちを成功させた幕府の采配に湧いた。
***
しかし、秀親の反応は冷淡そのものであった。
西の丸にて、得意げに報告する忠親に対し、秀親は茶を啜りながら言った。
「……今回は運が良かっただけだ。だが忠親、お前は危険な火遊びをしたぞ」
「火遊びとは心外な。天下の武士が喝采しております」
「その『喝采』が危ういのだ」
秀親の目が光った。
「仇討ちが美談になれば、今後、些細な恨みで刀を抜く馬鹿が増える。……ガス抜きにはなったが、法治の世には毒だ。……次は、私がその毒を消す」
秀親の懸念通り、この後、仇討ちを模倣する事件が散発する。
秀親はそれを見越し、裏で仇討ちの条件を極限まで厳しくする「仇討ち制限令」の準備を始めていた。
忠親は、父の深謀遠慮に戦慄した。
(父上は、私が救った『熱気』さえも、次の統制の材料にするというのか……)
情熱で動く忠親と、それを冷徹に管理する秀親。
二人の「壁」の差は、まだ埋まらない。
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