第31話 忠長、改易

寛永九年(一六三二年)夏。

 大御所・秀忠の喪が明けるや否や、徳川の屋台骨を揺るがす大事件が勃発した。

 駿河55万石の主、徳川忠長による乱行である。

 忠長は、父・秀忠の死によって精神の均衡を崩していた。「なぜ兄(家光)が将軍で、才ある自分が冷遇されるのか」。その鬱憤は狂気となり、罪なき家臣を手討ちにし、領民への暴政を繰り返していた。

 江戸城・白書院。

 家光は、駿河からの悲痛な訴状を握りしめ、苦悩していた。

「……忠長は、病なのだ。余が説得すれば、必ず心を取り戻す。……実の弟を裁くことなどできぬ」

 家光の目には涙が滲んでいた。幼き日、母・お江を取り合った仲とはいえ、世界でたった一人の同母弟である。

 側近の松平忠親もまた、主君の心中を察し、言葉を詰まらせていた。

「上様のお心、痛いほど分かります。しかし、これ以上放置すれば、幕府の威信に関わります……」

 その時であった。

 重厚な襖が音もなく開き、黒衣を纏った男が広間に入ってきた。

 従一位・左大臣、松平秀親である。

***

「……上様。弟一人斬れぬ刃で、天下が守れますか」

 秀親は、家光の前に立った。平伏などしない。官位において、彼の方が上であるからだ。

 家光は秀親を睨みつけた。

「左府(左大臣)殿……。余はまだ忠長を見限っておらぬ。兄弟の問題に口を挟むな」

「兄弟の問題ではございません。これは『天下』の問題です」

 秀親は冷徹に切り捨てた。

「法を犯せば、将軍の弟とて罰せられる。それを示さねば、諸大名への示しがつかぬ。……上様が情に流され、決断できぬというのであれば」

 秀親は、懐から一枚の書状を取り出し、忠親に突きつけた。

「忠親、読め。」

 忠親は震える手でそれを受け取り、読み上げた。

 「……駿河大納言・忠長。行状狂乱にして天下の法を乱す。よって、領地没収の上、上州・高崎への蟄居を命ず。……左大臣・松平秀親」

 それは、家光の頭越しに下された、事実上の「政治的死刑宣告」であった。

「なっ……! 秀親! 貴様、余の許可もなく!!」

 家光が激昂し、刀に手をかける。しかし秀親は動じない。

「私は左大臣。朝廷より賜りし権限と、亡き大御所の遺命により、徳川の不浄を正す責務がある。……不服ならば、私を斬りますか? 右大臣殿」

 その目は、完全に家光を見下していた。

 家光は歯ぎしりをし、刀から手を離した。ここで秀親を斬れば、それこそ徳川は内部崩壊する。

「……好きにせよ! だが覚えておけ、余は貴様を許さぬ!」

 家光は叫び、部屋を飛び出した。

***

 その夜。

 忠親は、秀親の居室を訪れた。

「……父上。あれが父上のやり方ですか。家光様のお心を傷つけ、憎まれて……それでも満足なのですか」

 秀親は、行灯の明かりの下で、静かに筆を走らせていた。忠長の蟄居先への手配書である。

「忠親。……家光様に『弟殺し』の汚名は背負わせられぬ。誰かが手を汚さねばならん」

 秀親は筆を止め、忠親を見た。その瞳の奥には、かつて家康に命じられ、信康の死を見届けた時と同じ、深い悲しみが宿っていた。

「私が悪鬼となり、家光様の代わりに弟を葬る。……家光様は、私を憎むことで、弟を失った悲しみを怒りに変えられる。それでよいのだ」

「……父上……」

「忠親、お前は家光様のそばで、共に私を憎め。そしていつか、この老害を乗り越えてみせろ」

***

 翌日、忠長は駿河を追われ、高崎へと護送された。(のちに自刃)。

 天下の諸大名は、震え上がった。

 「将軍の実弟ですら、容赦なく潰される」

 「今の幕府には、左大臣という恐ろしい鬼がいる」

 恐怖による統制。それが秀親の選んだ、家光政権初期の安定策であった。

 だが、家光と忠親の心には、秀親への「恐怖」ではなく、強烈な「反骨心」が刻み込まれた。

(……必ず、超えてみせる。我らの力で、父上の支配を終わらせてみせる)

 若き双璧の目が、初めて「政治家」の目になった瞬間であった。

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