第30話 大御所、逝く

寛永九年(一六三二年)一月。

 江戸城・西の丸。

 冬の乾いた風が吹き荒れる中、一つの時代が静かに幕を閉じようとしていた。

 「律儀者」として父・家康の覇業を継ぎ、武家諸法度によって徳川三百年の礎を築いた二代将軍・大御所徳川秀忠。その命の灯火は、いまや風前の灯となっていた。

 病床の秀忠は、見舞いに来た将軍・家光や老中たちをすべて下がらせ、ただ一人、生涯の影であった従兄弟を呼び止めた。

「……秀親。お前だけ、残れ」

 部屋には、死にゆく秀忠と、西の丸執政・松平秀親。二人だけの時間が流れた。

***

「……秀親。わしには心残りがある。……駿河の忠長のことだ」

 秀忠の瞳に、苦渋の色が浮かんだ。

 家光の弟・徳川忠長。聡明だが傲慢な彼は、父母の寵愛を一身に受けた結果、乱行を繰り返し、今や幕府の悩みの種となっていた。

「わしは親として、あやつを叱りきれなんだ。……だが、家光の世になれば、忠長は必ず火種となる。……秀親、頼む」

 秀忠は、骨と皮ばかりになった手で、秀親の手首を万力のように強く握りしめた。

「忠長を……始末せよ。……弟殺しの汚名を家光に背負わせるわけにはいかぬ。それができるのは、鬼になれるお前だけだ」

「……承知いたしました。その業、この秀親が引き受けましょう」

 秀親が静かに頷くと、秀忠は安堵の息を吐き、そして、懐の下から一通の書状を取り出した。

 それは、帝からの「宣旨(辞令)」であった。

「それともう一つ。……家光と忠親は、まだ若い。あやつらは『守られる』ことに慣れすぎている。……秀親よ」

 秀忠の眼光が、最期の瞬間に、かつて関ヶ原で見せたような鋭い光を放った。

「お前が、あやつらの『壁』になれ。……あやつらがお前という巨大な老木を切り倒し、乗り越えることができなければ、真の天下人にはなれぬ。……あやつらのために、あえて立ちはだかる『魔王』となってくれ」

 秀親は、渡された宣旨の中身を見て、息を呑んだ。

 そこには、徳川の家臣としては異例中の異例、将軍をも凌ぐ官位が記されていた。

 秀親は、涙を堪え、不敵な笑みを浮かべた。

「……ククッ。兄上も人が悪い。……よろしいでしょう。私が『影の将軍』として、若造たちに徳川の厳しさを骨の髄まで教えてやります」

 一月二十四日。徳川秀忠、薨去。享年五十四。

***

 葬儀が終わり、四十九日が過ぎた頃。

 江戸城・白書院。

 将軍・家光と、若き伏見城主・忠親、そして老中たちが揃う評定の場。

 大御所亡き後、実権はすべて将軍家光に戻るはずであった。誰もがそう信じていた。

 そこへ、秀親が静かに現れた。

 彼は、将軍である家光に対して一礼もせず、あろうことか家光よりも「上座」――本来、誰も座ってはならぬ床の間を背にした位置へ、悠然と腰を下ろしたのである。

「……父上!? 何をなされますか! そこは上様よりも上座ぞ!」

 忠親が驚愕し、声を荒げた。家光もまた、顔を紅潮させて立ち上がった。

「秀親殿! 乱心召されたか! 無礼にも程がある!」

 しかし、秀親は表情一つ変えず、懐から先日の書状を取り出した。

 

「控えよ、忠親。……そして家光様も、言葉を慎まれよ」

 秀親は、菊の御紋が入ったその宣旨を、家光の前に広げて見せた。

「亡き大御所様の推挙により、帝よりこの秀親に新たな官位が下された。……**『従一位・左大臣(じゅいちい・さだいじん)』**である」

 広間が凍りついた。

 現在の将軍・家光の官位は**「右大臣」。

 日本の律令において、「左」は「右」よりも上位である。つまり、将軍家光よりも、秀親の方が「官位が上」**となってしまったのだ。

「そんな……馬鹿な! 徳川の家臣が、将軍を超える官位など!」

 家光が震える声で呻く。秀親は、その動揺を冷酷に見下ろした。

「官位は天下の秩序そのもの。……右大臣である貴方様は、左大臣である私の決定を覆すことはできませぬ。忠長様の処遇も、大名の改易も、これよりは『左大臣』たる私が最終的な決裁を下します」

 秀忠は、死してなお家光に試練を与えたのだ。「将軍」という武家の棟梁の地位の上に、「左大臣」という朝廷の権威を纏った秀親を置くことで、強制的な指導体制を作り上げたのである。

「……父上、本気ですか。私と家光様の前に、敵として立ちはだかるおつもりですか」

 忠親が、悲しみと怒りの入り混じった目で睨みつける。

 秀親は、愛する息子を、そして主君である家光を、挑発するように鼻で笑った。

「敵? 勘違いするな。私は『壁』だ。……悔しければ、功績を積み、私を超えてみせよ。帝が私よりも貴方様こそ相応しいと認めるその日まで、この壁は崩れぬぞ」

 家光は、屈辱で拳を震わせ、畳を握りしめた。

 最高権力者であるはずの将軍が、官位という絶対的なルールの前で、家臣に膝を屈さねばならない。

「……おのれ、秀親……! 左大臣の椅子、必ず引きずり下ろしてやる!」

「望むところだ。……せいぜい足掻くがよい、若造ども」

 秀親は、あえて憎しみの視線を一身に浴びながら、心の中で亡き秀忠に語りかけた。

 (……兄上。これでよろしいですね。彼らが私を倒した時こそ、徳川の泰平は完成する)

 ここに、第3部の幕が上がる。

 「右大臣・将軍家光」対「左大臣・松平秀親」。

 徳川の未来を賭けた、壮絶な世代間闘争の始まりであった。

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