第29話 和子入内
紫衣事件の衝撃冷めやらぬ中、江戸城・西の丸は重苦しい空気に包まれていた。
大御所・秀忠は、愛娘・**和子(まさこ)**の手を握り、涙を流していた。
「……和子。許せ。わしは将軍でありながら、お前一人の幸せも守ってやれぬ」
和子は、母・お江の美貌を受け継ぐ気丈な姫であった。彼女は父の涙を拭い、静かに微笑んだ。
「父上。泣かないでくださいませ。……私は徳川の娘。この身一つで、帝の怒りが静まり、天下が安らぐのであれば、喜んで京へ参ります」
その光景を、襖の影から見つめる男がいた。西の丸執政・松平秀親である。
今回の入内(じゅだい)を強行したのは、他ならぬ秀親であった。
「……帝は、幕府を恨んでおられる。放っておけば、必ずや倒幕の綸旨(りんじ)を出されよう。それを防ぐには、徳川の血を引く皇子を産ませ、次代の帝に据えるしかない」
秀親の論理は完璧であったが、それは人の親としてはあまりに非情な決断であった。
***
入内当日。
京の都は、前代未聞の行列に度肝を抜かれた。
花嫁道具を運ぶ長持ちは数千個に及び、その行列の先頭が御所に着いても、最後尾はまだ二条城を出ていないと言われるほどの規模であった。
そして、その煌びやかな行列を、松平忠親率いる伏見100万石の鉄砲隊が、完全武装で警護していた。
それは婚礼のパレードというよりは、軍事制圧による「行軍」に近かった。
「……見よ。あれが徳川のやり方じゃ」
「帝を、金と鉄砲で買い叩くつもりか」
京の公家たちは口々に陰口を叩いたが、忠親の鋭い眼光が向けられると、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
***
御所の門前。
忠親は馬を降り、輿から降り立った和子(のちの東福門院)の前に跪いた。幼い頃、江戸城で共に遊んだ従姉妹である。
「和子様。……ここからは、お一人での戦いになります」
和子は、白無垢の裾を正し、凛とした声で答えた。
「忠親。……そなたの父上(秀親)を恨んではおりませぬ。むしろ感謝しています。……徳川の『守り神』となる場所を与えてくれたのですから」
「……必ず、お守りします。この伏見にある限り、御所に不穏な風は吹かせませぬ」
和子は小さく頷き、二度と戻れぬ禁裏の奥へと消えていった。
その背中は、どんな武将よりも勇敢に見えた。
***
その夜、伏見城。
江戸へ戻る秀忠を見送った後、忠親は父・秀親と対峙していた。
「……父上。これで満足ですか。大御所様の涙も、和子様の覚悟も、すべて計算通りだと?」
秀親は、京の方向を見つめながら、酒を煽った。
「満足などない。……だが、これで朝廷は『徳川の外戚』となった。帝がどれほど幕府を憎もうと、生まれてくる子は徳川の血族だ。……この鎖は、百年経っても切れぬ」
秀親は、空になった杯を置いた。
「忠親。……恨むなら私を恨め。だが、和子様が産む皇子が即位する時、お前が築いた泰平は完成する。……その日まで、鬼の面を外すな」
「……承知いたしました。この伏見の牙、和子様のために使いましょう」
数年後、和子は皇女を産み、その皇女が明正天皇として即位することになる。
秀親の描いた「朝廷と幕府の合体」という究極の策は、多くの犠牲と悲しみの上に、ついに成就しようとしていた。
しかし、時代は止まらない。
江戸では、大御所・秀忠の命の灯火が、静かに消えようとしていた。
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