第28話 紫衣事件
寛永四年(一六二七年)。
京都、大徳寺。
古来より、高僧が身に纏うことを許される「紫衣(紫の法衣)」。それは朝廷(天皇)のみが授与できる最高の名誉であり、仏教界における権威の象徴であった。
しかし、時の帝・後水尾天皇は、幕府に無断で数十名もの僧侶に紫衣を授けていた。
江戸城・西の丸。
金地院崇伝(こんちいんすうでん)からの報告を受けた西の丸執政・松平秀親は、眉一つ動かさずに言った。
「……帝は、法を試しておられるのだ」
同席していた大御所・秀忠が、苦渋の表情で唸る。
「家康公が定めた『禁中並公家諸法度』では、紫衣の授与には幕府の許可が必要と定めてある。……だが、相手は帝だ。無下にすれば、世論が幕府を『朝敵』と騒ぎ立てるぞ」
秀親は、秀忠の迷いを断ち切るように、冷ややかな視線を向けた。
「兄上。もしここで帝の気まぐれを許せば、諸大名もまた『法よりも権威』を重んじるようになりましょう。……法治の国を作るなら、例外はあってはなりませぬ。たとえそれが、神の末裔であっても」
秀親は懐から一通の命令書を取り出し、伏見への早馬を手配した。
「紫衣を取り上げよ。……汚れ役は、すべて伏見(忠親)にやらせます」
***
伏見城。
父からの命令書を受け取った松平忠親の手は、微かに震えていた。
『勅許(天皇の許可)無き紫衣の授与は無効とする。直ちに寺院へ立ち入り、紫衣を剥奪せよ』
それは、実質的に天皇の顔に泥を塗る行為であり、信心深い者ならば地獄に落ちると恐れるような暴挙であった。
側近たちが青ざめる中、忠親は書状を握り潰し、立ち上がった。
「……父上は、私を試しているのだ。神仏の祟りと、徳川の法。どちらが重いかを選べとな」
***
数日後。
忠親は、伏見100万石の武装兵を率いて、京都・大徳寺の門を破った。
抗議する高僧たちが、忠親の前に立ちはだかる。
「控えよ! これは帝より賜りし聖なる衣ぞ! 武士ごときが触れてよいものではない!」
忠親は、僧侶たちの怒号の中、静かに、しかし圧倒的な威圧感を持って歩み寄った。
「……帝の権威は尊い。だが、この現世を統べるのは徳川の法である」
忠親は、住職が着ていた紫衣を掴み、一気に引き剥がした。
絹の裂ける音が、静寂な境内に響き渡る。
「法を破れば、衣一枚とて許さぬ。……不服があれば、江戸へ申し立てよ。ただし、その時は寺ごとお取り潰しになる覚悟でな」
忠親は、回収した紫衣の山を前に、冷徹に言い放った。
その背中には、かつて父・秀親から叩き込まれた「鬼」の精神が、確かに宿り始めていた。
***
この事件は、朝廷を激震させた。
面子を丸潰れにされた後水尾天皇は激怒し、抗議のために**「譲位(退位)」**をほのめかす事態となった。
江戸城・本丸。
報告を聞いた将軍・家光は、顔を青ざめさせた。
「忠親……。あやつ、そこまでやるか。帝を敵に回して、幕府は大丈夫なのか」
その夜、西の丸。
秀親のもとに、忠親からの報告書が届く。
『全紫衣、剥奪完了。京の僧侶、沈黙せり』
秀親は、報告書を蝋燭の火で燃やしながら、微かに口元を緩めた。
「……よくやった、忠親。これで朝廷は、二度と幕府の頭越しに動くことはできぬ」
秀親は、燃え落ちる灰を見つめた。
「だが、帝の怒りは収まらぬだろう。……次は、わしがその怒りを鎮める『生贄』を用意せねばならぬな」
法を守るために聖域を犯した徳川。
その代償として、秀親は自らの悪名をさらに高める、ある「非情な縁組み」を画策し始めていた。
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