第26話 家光の将軍宣下
元和九年(一六二三年)七月。
京の都は、かつてない緊張と熱気に包まれていた。
三代将軍・徳川家光の将軍宣下のため、江戸から三十万の軍勢が入京し、二条城と伏見城を埋め尽くしていたのである。
伏見城の大手門。
新将軍・家光と大御所・秀忠を迎えるため、伏見100万石の新城主となった松平忠親が、威儀を正して平伏していた。
「上様、大御所様。……ご着到、お待ち申し上げておりました」
忠親の挨拶に対し、大御所・秀忠は「うむ、大義である」と声をかけた。
しかし、その輿の脇に従う父・松平秀親は、平伏する息子を一瞥すらせず、ただ冷ややかに鼻を鳴らしただけだった。
「……警護の配置が甘い。大手門の屋根に隙があるぞ、忠親」
再会の第一声は、労いではなく、鋭利な叱責であった。
***
七月二十七日。
伏見城にて、歴史的な将軍宣下の儀が執り行われた。
家光は、諸大名を広間に集め、煌びやかな束帯姿で上座に座った。
伊達政宗、毛利秀就、島津家久……。戦国の世を知る古参の猛者たちが、値踏みするような視線を若き将軍に向けている。
家光は、彼らの視線を正面から受け止め、宣言した。
「諸大名、よく聞け。……祖父・家康公は天下を草創し、父・秀忠公はこれを整えた。だが、余は違う」
家光は、刀の鯉口を切りそうなほどの覇気で言い放った。
「余は、生まれながらの将軍である」
広間がざわめいた。「かつての同僚扱いをするな」という強烈な宣言。
その瞬間、家光の傍らに控えていた忠親が、一歩踏み出した。
腰の刀に手をかけずとも、全身から噴き出すような「殺気」が、広間の空気を凍りつかせた。
(家光様に異を唱える者は、この伏見の牙が喰いちぎる)
その気迫に圧され、伊達政宗でさえも深々と頭を下げた。
「……ははっ。恐れ入りましてございます」
***
儀式の後。
忠親は、役目を終えた高揚感を胸に、父・秀親の元へ報告に向かった。
しかし、秀親は忠親の顔を見るなり、冷たく言い放った。
「……何だ、その顔は」
「父上。……無事、伊達や島津を黙らせてご覧に入れました。家光様の威光、天下に示せたかと」
「愚か者め」
秀親の声が、氷のように突き刺さった。
「貴様が放ったのは、ただの殺気だ。犬が吠えたに過ぎん。……真の『影』ならば、殺気すら悟らせず、敵が気づいた時には既に喉元を掻き切っているものだ」
秀親は、忠親に一歩詰め寄った。
「伊達政宗は古狸だ。貴様の殺気を見て『若造が粋がっている』と腹の中で笑っていたぞ。……恐怖で縛るのは下策。貴様が目指すべきは、存在そのものが『逃れられぬ掟』となることだ」
忠親は、冷や水を浴びせられたように表情を硬くし、膝をついた。
「……申し訳ございません。慢心しておりました」
「家光様が『光』なら、お前は底無しの『闇』になれ。……今日の如き未熟な振る舞い、二度と見せるな」
秀親はそれだけ言い捨てて、背を向けた。
***
その後、秀忠との密談の席。
秀忠は苦笑しながら、秀親に茶を勧めた。
「秀親。……ちと厳しすぎるのではないか? 忠親はよくやったと思うが」
「いいえ、兄上。……あやつは、まだ脆い」
秀親は、茶碗を見つめながら独りごちた。
「家光様を守るには、半端な強さでは足りませぬ。……私が鬼となり、あやつを本当の修羅にするまでは、決して褒めはしませぬ」
秀忠は、秀親の瞳の奥にある、親としての凄絶な覚悟を見て取り、静かに頷いた。
江戸へ戻る道中。
忠親は、父の背中を睨みつけながら、その拳を強く握りしめていた。
(父上……。いつか必ず、貴方を超えてみせる。貴方が認める『完璧な影』になってみせる)
その反骨心こそが、秀親が息子に与えたかった「教育」であった。
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