第25話 西の丸の盟約

元和九年(一六二三年)。

 江戸城、奥御殿。

 二代将軍・徳川秀忠は、自身の老いと、次代・家光の成長を天秤にかけ、一つの大きな決断を下そうとしていた。

 それは、将軍職を家光に譲り、自らは「大御所」として実権を握り続けること。だが、秀忠には不安があった。家光の気性は激しく、独断専行に走る危うさがある。自分一人で、あの奔馬の手綱を捌ききれるか――。

 秀忠は、伏見から参勤で江戸へ来ていた松平秀親を、夜分密かに寝所へ招いた。

「……秀親。今宵は公の場ではない。従兄弟同士、腹を割って話したい」

 秀忠は周囲を払うと、秀親の正面に座り、真剣な眼差しを向けた。

「わしは近々、将軍職を家光に譲るつもりだ。……だが秀親、それと同時にお前にも頼みがある」

「はっ。伏見の兵を動かせとあらば、いつでも」

「違う」

 秀忠は首を横に振った。

「お前も、隠居せよ」

 秀親は目を見開いた。まだ四十三歳。脂の乗り切った時期である。

「お前も家督を嫡男・忠親に譲り、伏見100万石の全権をあやつに託せ。……そして秀親、お前は江戸へ来い。わしと共に、江戸城西の丸で政(まつりごと)を執るのだ」

***

 秀忠の提案は、徳川の統治機構を根底から変えるものであった。

「家光と忠親は若い。奴らには表舞台で、若さと力強さを天下に示させる。……だが、政治の駆け引き、朝廷との調整、法の運用……これらには老獪な知恵がいる。それを、わしとお前で担うのだ」

 秀忠は身を乗り出した。

「わしが大御所として睨みを利かせ、お前が『西の丸の執政』として実務を取り仕切る。……秀親、わしにはお前が必要なのだ。父上(家康)にとっての正信のような、あるいはそれ以上の片腕として、江戸でわしを支えてくれぬか」

 秀親は、秀忠の切実な瞳に、将軍としての孤独と、自分への深い信頼を見た。

 かつて「影」として生きてきた自分に、表舞台の、それも政権の中枢で共に並び立とうと言ってくれている。

 秀親は深く、静かに頭を下げた。

「……承知いたしました。この身、兄上(秀忠)の杖となり、江戸にて徳川の礎を固めましょう」

***

 翌日、秀親は江戸藩邸に忠親を呼び出した。

 二十歳になった忠親は、すでに家光の側近として風格を漂わせていた。

「忠親。……私は隠居し、大御所様と共に江戸に残る」

 秀親は、長年愛用してきた采配を忠親に渡した。

「よって、今日この時をもって、お前に松平家の家督と、伏見100万石の全てを譲る」

 忠親は驚愕し、言葉を失った。

「ち、父上……! 私に、あの西国の重石が務まりましょうか。まだ私には……」

「務まる。……いや、務めねばならぬ」

 秀親は厳しく、しかし温かい声で諭した。

「お前は家光様の『友』だ。お前が伏見で西国を抑えているからこそ、家光様は江戸で安心して将軍の座に座れる。……江戸の政は私が引き受ける。お前は伏見で、徳川の『武』となれ」

 忠親は、父から渡された采配を震える手で握りしめた。その重みは、父が背負ってきた歴史そのものであった。

「……謹んで、お受けいたします。父上が築かれた伏見の鉄壁、指一本触れさせませぬ」

***

 こうして、徳川の新たな体制が決まった。

 江戸城本丸には、新将軍・家光。

 伏見城には、若き太守・忠親。

 そして江戸城西の丸には、大御所・秀忠と、その補佐役・秀親。

 若き実行力と、老練な政治力が融合する**「二元政治」**。

 この最強の布陣こそが、のちの「寛永の治」と呼ばれる徳川の黄金期を築き上げることになる。

 秀親は、江戸城西の丸から見える富士を眺めた。

(万千代……いや、忠親よ。行け。お前の時代が、今始まったのだ)

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