第20話 武家諸法度
元和二年(一六一六年)夏。
大御所・家康の死後、天下は静まり返っていた。諸大名は、二代将軍・秀忠がどのような采配を振るうのか、固唾を呑んで見守っていた。
そんな中、江戸城に招集された大名たちの前に、秀忠が厳かに宣言した。
「これより、天下の掟を定める。これに背く者は、誰であれ容赦はせぬ」
『武家諸法度』。
城の無断修築の禁止、大名同士の勝手な婚姻の禁止。武士の私生活から軍備に至るまでを厳格に縛る、徳川の「鉄の掟」である。
その執行責任者として、西国大名の監視を任されたのが、伏見城に戻った松平秀親であった。
***
「伏見殿(秀親)は、家康公以上の鬼になられたな……」
京の街では、大名たちの使者がそう囁き合っていた。
秀親は、伏見100万石の軍事力と、配下の隠密網をフル回転させ、西国諸藩の動向を洗い出した。
ターゲットとなったのは、かつて大坂の陣で勇名を馳せた猛将・福島正則であった。正則は、居城である広島城が洪水で壊れた際、幕府の許可を得る前に一部を修理してしまったのである。
「福島殿。……城の修築は、明らかに法度への抵触。言い逃れはできませぬぞ」
伏見城に呼び出された正則に対し、秀親は氷のような冷徹さで突きつけた。
「秀親殿! 洪水で壁が崩れたのを直しただけだ。それを改易だの減封だの、あんまりではないか!」
「法は法にございます。福島殿、貴殿のような大御所恩顧の者が掟を破れば、天下の示しがつきませぬ。……これは、上様(秀忠)の御意志にございます」
秀親の背後には、100万石の威光と、背後で睨みを利かせる将軍・秀忠の影があった。正則は、秀親の瞳の中に、もはや「情」で動く武士ではなく、国家という「機構」の一部となった男の姿を見て、力なく項垂れた。
***
結局、福島正則は信濃へ転封(実質的な改易に近い減封)となった。この一件により、天下の諸大名は「徳川の法は、かつての功臣であっても容赦しない」という恐怖を骨の髄まで叩き込まれた。
秀親は、伏見城の書斎で、江戸の秀忠へ宛てた密書をしたためた。
『兄上。西の牙は、すべて抜きました。これより百年の泰平は、戦ではなく「法」によって守られることでしょう』
自らの手を汚し、かつての戦友を追い詰める。それが家康から託された「影の盾」の役割であった。
***
一方、江戸城。
元服を間近に控えた竹千代(家光)と、彼に寄り添う万千代。
二人の少年は、江戸城の庭で木刀を振るい合っていた。
「万千代、聞いたか。父上と、お前の父上が、福島のおじ上を追い出したと……。法を破れば、あのような猛将でも抗えぬのだな」
竹千代は、少し怯えたような、しかし悟ったような表情で言った。万千代は静かに答えた。
「竹千代様。法とは、民を守るための堤防にございます。父は、その堤を汚す泥を取り除いているに過ぎませぬ。……いつか貴方様が将軍になられる時、その堤が盤石であるように」
竹千代は万千代の目を見て、力強く頷いた。
「そうだな。……私が将軍になったら、お前は私の隣で、誰よりも厳しい法の番人になってくれ」
家康が逝き、時代は「武」から「文」へ、そして「情」から「法」へと、激しく変転していく。
秀親の築いた屍の上に、家光と万千代の新しい治世の種が、着実に撒かれようとしていた。
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