第19話 家康の最後
元和二年(一六一六年)四月。
駿府城、奥御殿。
かつて天下を切り取った巨人の息は、今や細く、浅いものとなっていた。大病を患った家康の枕元には、二代将軍・秀忠、そして伏見から急ぎ駆けつけた松平秀親の二人が呼び出されていた。
「……秀忠、秀親。……顔を上げよ」
家康の声は掠れていたが、その眼光だけは、死の淵にあってもなお獲物を狙う鷹のように鋭かった。家康はまず、秀忠を見て静かに頷いた。
「秀忠……。お前は、わしの作った道を、ただ真っ直ぐに歩め。……武家諸法度を以て大名を縛り、公家を御所に閉じ込めよ。……それがお前の『光』の役目じゃ」
「……はっ。肝に銘じまする、父上」
秀忠が涙ながらに答えると、家康の視線は次に、秀親へと向けられた。
***
「秀親。……百万石の調子はいかがじゃ」
「……伏見は、西国の喉元。私が睨みを利かせている限り、淀川を下る者も、京へ昇る者も、徳川の威光を忘れることはございませぬ」
秀親が答えると、家康は満足げに、しかしどこか悲しげに微笑んだ。家康は秀忠を下がらせ、秀親一人を枕元に招き寄せた。
「秀親……。お前には、最期に最も汚い役目を与える。……わしが死ねば、徳川の中に『驕り』が生まれる。身内の中から、天下を望む不届き者が現れるかもしれぬ。……たとえそれが、わしの息子であっても、お前の兄弟であっても、徳川の世を乱す者であれば……」
家康は秀親の耳元で、死の匂いのする声で囁いた。
「……殺せ。お前の百万石は、そのための刃じゃ」
秀親は息を呑んだ。
秀忠の政治は「表(光)」、しかし秀親の100万石は、徳川一門の中にさえメスを入れる「裏(影)」の警察権力であれというのだ。家康は、己の死後、組織が腐敗し、身内争いで崩壊することを何よりも恐れていた。かつての秀次事件の惨劇を繰り返さぬために、あえて「身内の監視者」という呪いを秀親に託したのである。
「……承知いたしました、祖父上。……私は、徳川の影の盾となり、不浄をすべて斬り捨てます」
「うむ。……これでお前は、万千代と共に……泰平の世の『礎(いしずえ)』となれる」
***
四月十七日。
徳川家康、薨去。享年、七十五。
戦国を終わらせ、江戸の平和を築いた巨星が、ついに堕ちた。
秀親は、駿府城の屋根に舞う一羽の鷹を見上げていた。
家康という絶対的な重しが取れた今、天下は再び揺れ動く。改易を恐れる大名たちの不満、そして力を持ちすぎた一門同士の牽制。秀親がこれから歩むのは、家康が遺した「血の遺言」を遂行する、孤独で過酷な道であった。
***
駿府からの帰り道。秀親は、江戸城へ向かう一団と合流した。
そこには、十二歳となった嫡男・万千代と、同じく十二歳の**竹千代(家光)**がいた。
家康の葬儀を終えた二人の少年は、悲しみを堪え、前を向いていた。
「万千代の父上、お聞きしました。大御所様(家康)は、神になられたのでしょう?」
竹千代が、無邪気に秀親に問いかける。秀親は馬を降り、二人の少年の前に跪いた。
「はい。神となり、お二人を見守っておられます。……竹千代様、これからは父君(秀忠)と、そしてここにいる万千代と共に、新しい国をお創りください」
「ああ、約束する。万千代がいれば、私は何も怖くない」
竹千代が、万千代の肩に手を置く。
家康の死という「光」の終わりは、次世代の「双璧」にとっての始まりであった。
秀親は、二人の背中を見送りながら、自らの脇差を握りしめた。
(万千代よ。お前たちが歩む道に、血は一滴も流させぬ。……この百万石の主、松平秀親が、すべての闇を飲み込んでやろう)
時代は、二代将軍・秀忠による「冷徹な法治政治」の幕開けへと向かっていく
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