第12話 将軍宣下
慶長十年(一六〇五年)三月。
東海道は、かつてない軍勢の足音に震えていた。
新将軍・徳川秀忠の就任儀式のため、家康は十万という空前絶後の大軍を率いて上洛を開始したのである。これは単なる行列ではない。豊臣家、そして西国諸大名に対し、「徳川の武威に従え」と突きつける無言の圧力であった。
その軍列のなかでも、ひときわ精強な一団を率いているのが松平秀親である。
尾張・三河から動員された七十万石の精鋭を率い、秀親は家康・秀忠父子の先鋒として京へ入った。
「誰も動かすな。不審な者はその場で斬れ。……今日、この日から、天下の主は入れ替わるのだ」
秀親の命を受け、尾張の兵たちが伏見から京の市中までを完全に制圧した。
***
四月十六日。伏見城。
朝廷からの勅使が到着し、秀忠に征夷大将軍の宣旨が下された。
弱冠二十七歳の二代将軍、誕生の瞬間である。
広間に並ぶ大名たちは、家康がこれほど早く隠居し、秀忠に職を譲るとは思っていなかった。豊臣家からすれば、「秀頼が成人するまで家康が預かっているだけ」という淡い期待を完全に粉砕されたことになる。
儀式の後、新将軍となった秀忠は、重い肩衣(かたぎぬ)を脱ぎ捨て、秀親の待つ別室へ入った。
秀忠の顔は、緊張で青ざめている。
「……秀親。わしが将軍だ。……家康公の跡を、このわしが継ぐのだ。……恐ろしいことだと思わぬか」
秀忠の手は、微かに震えていた。
秀親は静かに膝をつき、兄の目を見据えた。
「恐れる必要はございませぬ。上様(家康)は駿府に退き、大御所(おおごしょ)として睨みを利かされます。そして、この秀親が尾張で西を塞ぎます。……兄上は江戸で、ただ『徳川の平和』を形にすればよいのです」
「お前は、いつもそう言うな」
秀忠は自嘲気味に笑い、しかしその目は秀親への深い信頼を湛えていた。
「わしは光、お前は影。……だが、影があまりに強すぎて、光を飲み込んでしまわぬか」
「……その時は、私の首を撥ねてください」
秀親の即答に、秀忠は絶句した。
「私が兄上の邪魔になるのであれば、いつでも命を捨てます。……ですが、今の天下に、私以上に兄上を守れる男はおりませぬ。……それを忘れないでください」
張り詰めた空気のなか、秀忠はゆっくりと頷き、秀親の肩を叩いた。
***
数日後。上洛の狂騒が落ち着いた頃。
秀親は、伏見城の最上階で、叔父の結城秀康と対峙していた。
秀康は、将軍職を継げなかった自らの境遇を笑い飛ばすように、豪快に酒を煽った。
「秀親。……秀忠が将軍か。……わしも、そなたも、これで『臣下』というわけだ。……面白い世の中になったものよ」
「……秀康兄上。不満がおありですか」
「ははは! 不満があれば、今頃反旗を翻しておるわ。……だがな、秀親。一つだけ教えてやろう。……上様(家康)は、わしらのような『武勇すぎる者』を怖がっておられる」
秀康は、杯を床に置いた。
「わしは北ノ庄(越前)へ。そなたは尾張へ。……二人で西を固める。だが、もしわしが倒れた時……その時は、そなたがこの伏見(京)に入らねばならんぞ」
「……縁起でもないことを。兄上はまだお若く、お強い」
「……そうであればよいがな」
秀康は、自分の胸を軽く押さえ、寂しげに笑った。
秀親は、その時初めて、自分を支える大きな柱の一つが、わずかに揺らいでいることに気づいた。
***
五月。
秀忠は二代将軍として、堂々と江戸へ向けて出立した。
徳川の世が「一代限り」ではないことを天下に示した、歴史的な帰還である。
見送りを終えた秀親は、清洲城へ戻る馬上で、自身の嫡男・万千代のことを思い出していた。
(世襲、か。……親が影ならば、子もまた影)
秀忠が江戸で築く新しい時代。それを守るために、自分は尾張で、さらに牙を研がねばならない。
だが、家康の隠居(大御所化)と秀忠の将軍就任という「二元政治」の始まりは、大坂城の淀殿を激怒させ、豊臣家との溝を修復不可能なものにしていく。
「天下の平和」という名の、長き冷戦の幕開けであった。
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