第11話 長男誕生
慶長九年(一六〇四年)七月十七日。
武蔵国、江戸城西の丸。
真夏の熱気の中、江戸城は歓喜に沸き返っていた。
将軍世子・徳川秀忠の正室・お江(ごう)が、待望の嫡男を出産したのである。
駿府にいた家康は、報せを受けるや直ちに筆を執り、自ら幼名を授けた。
名は竹千代(たけちよ)。のちの三代将軍・家光である。
「でかした! これで徳川の世は盤石じゃ!」
家康は手を叩いて喜んだ。秀忠もまた、我が子の誕生に頬を緩め、その小さな手を恐る恐る握りしめていた。「光」の後継者が生まれた瞬間であった。
***
時を同じくして。
尾張国、清洲城。
江戸の喧騒とは対照的に、静寂の中でその命は生まれた。
秀親の正室・千世が、難産の末に男児を出産したのである。
「……オギャア! オギャア!」
元気な産声が奥御殿に響く。廊下で待機していた松平秀親は、その声を聞いた瞬間、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「……生まれたか」
襖が開き、侍女が赤子を抱いて現れる。汗まみれになりながらも、千世は布団の上で微笑んでいた。
「……殿。男の子にございます」
秀親は、我が子を抱き上げた。ずっしりと重い。その顔は、生まれたばかりだというのに、妙に眉間に皺が寄っており、秀親に似て気難しそうであった。
「よくやった、千世」
秀親が妻を労っているところへ、駿府からの使者が到着した。家康は江戸の竹千代のみならず、尾張の曾孫(ひまご)の誕生をも見越していたかのような早さであった。
「上様(家康)より、お言葉がございます。『竹千代は、わしの孫。この子は、わしの曾孫。万代に渡りて徳川を支えよとの意を込め、名は**万千代(まんちよ)**とせよ』との宣(のたま)いにございます」
秀親は、その名を噛み締めるように繰り返した。
「万千代、か……。ありがたき幸せ」
秀親は、赤子の頬を指でつついた。
「聞いたか、万千代。お前の名は、大御所様……いや、上様より賜ったのだ。江戸の竹千代君は、お前の主君であり、敬うべき叔父上。お前は万(よろず)の力を尽くし、その影となって支えるのだ」
千世が、少し不安げに夫を見上げる。
「生まれた時から、主従が決まっているのですね……」
「ああ。だが、それでいい。競い合えば血が流れるが、傅(かしず)くことを誇りとすれば、この子は徳川最強の守り刀になれる」
万千代は、父の言葉を理解したのか、泣き止み、じっと秀親の顔を見つめ返した。
***
数日後。
駿府の家康から、見事な太刀と共に一通の書状が届けられた。
『竹千代と万千代。二本の矢となれ』
簡潔な文面。だが、そこには家康の安堵と期待が込められていた。信康の死によって一度は断絶しかけた血統が、こうして孫と曾孫の代で再生し、新たな秩序として機能し始めたのだ。
その夜。
秀親は、寝かしつけた万千代の寝顔を見ながら、千世に語った。
「……俺はな、千世。この子を、俺以上の『影』に育てるつもりだ。竹千代君にとって、なくてはならない分身となるようにな」
千世は、少し悲しげに、しかし力強く頷いた。
「……はい。それが、この子の幸せならば。私も、鬼の母となりましょう」
窓の外には、満月が輝いていた。
江戸には竹千代。尾張には万千代。
二十年後、彼らが成長した時、再び「天の双璧」の物語は繰り返されることになる。
だが、その未来の前に、秀親には片付けなければならない現実があった。
家康が将軍職を秀忠に譲る日が迫っている。それは「徳川の世襲」を天下に知らしめる大勝負の始まりであった。
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