第10話 千姫の輿入れ
慶長八年(一六〇三年)七月二十八日。
大坂城。
真夏の太陽が照りつける中、歴史的な婚姻の儀が執り行われようとしていた。
徳川秀忠の長女・千姫(せんひめ)、わずか七歳。
豊臣秀頼、十一歳。
かつて太閤・秀吉の遺言によって定められたこの結婚は、家康が将軍となった今、徳川と豊臣の対立を回避するための「平和の証」として、急遽実現されたのである。
その豪華絢爛な輿入れ行列の警護総指揮を任されたのは、松平秀親であった。
彼は、千姫の輿のそばを片時も離れず、鋭い視線で周囲を警戒していた。
(……七歳の花嫁か。あまりに残酷な人質交換だ)
秀親は、輿の中で緊張して固まっているであろう姪(従兄の娘)を思い、胸を痛めた。
徳川にとっては、大事な姫を敵地へ差し出す人質。
豊臣にとっては、徳川を繋ぎ止めるための鎖。
この幼い少女は、両家の政治的欺瞞(ぎまん)の象徴として、今日からこの魔窟・大坂城で暮らすのだ。
***
大坂城、桜門。
出迎えたのは、豊臣家の重臣たちであった。
片桐且元(かたぎりかつもと)、大野治長(おおのはるなが)。そして、奥を取り仕切る淀殿の侍女たち。
彼らの目は、将軍の孫娘を迎えるというのに、どこか冷ややかで、傲慢な色が混じっていた。
「ようこそおいでなされました、千姫様」
慇懃無礼な挨拶を交わす彼らを押しのけ、秀親は自ら千姫の手を取り、輿から降ろした。
「……叔父上様」
千姫が、小さな手で秀親の袖をギュッと握る。その手は震えていた。
「恐れることはありませぬ、千姫様。……この秀親がついております」
秀親は優しく微笑み、しかし周囲の豊臣家臣たちには氷のような視線を投げかけた。
(もし姫に指一本でも触れてみろ。……この城ごと焼き払ってやる)
その無言の殺気に、大野治長らがたじろぐ。
***
本丸、対面の間。
ついに、新郎である豊臣秀頼が姿を現した。
秀親は、息を呑んだ。
十一歳と聞いていた。まだ子供だと侮っていた。
だが、上座に座るその少年は、大人と見紛うほどの巨躯(きょく)と、白磁のように美しい肌を持っていた。
そして何より、その全身から発せられる「貴種」特有のオーラが、部屋の空気を支配していた。
「……遠路はるばる、大儀であった」
秀頼の声は、涼やかで、威厳に満ちていた。
千姫がおずおずと挨拶をすると、秀頼は破顔し、優しく言った。
「よく来てくれた、千。……今日から余がそなたを守ろう」
その笑顔には、一点の曇りも、邪気もなかった。
純粋培養された「天下人」としての、無邪気な自信。
それが、秀親には何よりも恐ろしく感じられた。
(……化け物か)
秀親は、平伏しながら冷や汗が背中を伝うのを感じた。
この少年には、人を惹きつけるカリスマがある。父・秀吉のような泥臭い愛嬌ではなく、生まれながらにして「傅(かしず)かれること」を当然とする、神のような無垢な輝きだ。
もし、この少年が成人し、その才覚を開花させれば……。
関ヶ原を知らぬ世代の大名たちは、再び「太閤の遺児」の下に集うかもしれぬ。
(殺さねばならぬ)
秀親の脳裏に、危険な衝動が走った。
今ここで、隠し持った短刀でこの少年を刺せば、徳川の憂いは消える。
だが、その横には、秀頼を信頼しきった目で見つめる千姫がいる。
(……できぬか)
秀親は、拳を握りしめた。
***
儀式が終わり、退出の刻限となった。
秀親は、千姫との別れの挨拶をした。
「千姫様。……何かあれば、すぐに尾張へ知らせをお出しください。草の者(忍者)を忍ばせておきます」
「はい、叔父上様。……あの方(秀頼様)は、とてもお優しそうな方でした」
千姫は、頬を染めて言った。
無邪気な子供同士の政略結婚。だが、その裏にある残酷な運命を、彼女はまだ知らない。
秀親は大坂城を去る際、振り返って天守を見上げた。
夕日に染まる巨大な城。
それは、滅びゆく王朝の最後の輝きのように見えた。
「……秀忠兄上」
秀親は、東の空に向かって呟いた。
「大坂には、恐ろしい虎の子が育っております。……このまま放っておけば、いずれ徳川を喰らう巨獣となりましょう」
平和のための結婚。
だが秀親は確信していた。これが平和をもたらすことはない。
むしろ、千姫という人質がいることで、将来の決戦はより悲劇的なものになるだろう、と。
尾張へ戻る馬上で、秀親は決意を新たにした。
大坂が暴発するその時まで、力を蓄えねばならぬ。
秀頼という「光」に対抗できるのは、同じく「秀」の名を持つ自分の「闇」だけかもしれないのだから。
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