第9話 征夷大将軍

慶長八年(一六〇三年)二月十二日。

 山城国、伏見城。

 早春の冷気の中、伏見城の大広間は、かつてない緊張と厳粛な空気に包まれていた。

 上座に座る徳川家康の元へ、朝廷からの勅使(ちょくし)が到着したのである。

 携えられた宣旨(せんじ)が読み上げられる。

「……源家康、**征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)**ニ任ズ……」

 その瞬間、平伏していた諸大名たちの背中が、一様に震えた。

 征夷大将軍。

 源頼朝、足利尊氏に続く、武家の棟梁たる称号。

 この瞬間、家康は豊臣政権下の「五大老」という枠組みを完全に離脱し、独立した**「徳川幕府」**の主となったのである。

 家康の背後に控えていた松平秀親は、静かに頭を下げながら、その歴史的意味を反芻していた。

 (関白ではなく、将軍か……)

 それは、亡き太閤・豊臣秀吉が作り上げ、そして失敗したシステムへの、静かなる決別であった。

***

 三月二十五日。

 将軍宣下(せんげ)の御礼のため、家康は京の御所へ参内(さんだい)することとなった。

 京の都大路は、新将軍の行列を一目見ようとする見物人で溢れかえっていた。

 その行列の先頭、露払いとして馬を進める若武者がいた。

 松平秀親、二十三歳。

 黒塗りの甲冑に身を包み、鋭い眼光で沿道を睨みつけている。

 「尾張・三河七十万石」という巨大な武力を背負う彼の威圧感は、群衆を圧倒し、不穏な動きを完全に封じ込めていた。

 (誰も動くなよ。……新将軍の晴れ舞台、血で汚させるわけにはいかぬ)

 秀親が通るだけで、波が引くように人垣が静まり返る。

 その圧倒的な「武威」に守られ、牛車に乗った家康は、悠々と御所の門をくぐった。

***

 参内を終え、二条城に戻った夜。

 家康は、秀親を寝所に招いた。

 将軍の直垂(ひたたれ)を脱ぎ、くつろいだ様子の家康は、上機嫌で酒を勧めた。

「秀親、ご苦労であった。……そちが睨みを利かせてくれたおかげで、鼠一匹出なんだわ」

「はっ。……京の雀たちも、徳川の威光に震え上がっておりました」

 秀親は杯を受けた。

 家康は、酒を一口啜ると、秀親の顔を覗き込んだ。

「秀親。……そちは疑問に思うておるな。なぜわしが、太閤殿下と同じ『関白』になろうとしなかったのか、と」

「……はい。関白ならば、朝廷の権威を盾に、豊臣家をも臣下として扱えたはず」

 家康は首を横に振った。

「太閤殿下は、一度は関白を養子の秀次公へ譲られた。……ご自身の隠居後も、豊臣家で関白を世襲させるためにな」

 家康の目が、暗い過去を見るように細められた。

「だが、結果はどうじゃ? ……二つの太陽が並び立ったことで、疑心暗鬼が生まれ、あの『殺生関白』の悲劇が起きた。……秀次公は切腹し、一族は根絶やしにされ、関白の座はその後、誰が座ることもなく空位となった」

 秀親は息を呑んだ。

 身内同士での凄惨な殺し合い。それが豊臣の命脈を縮めた最大の要因だった。

「関白とは、あくまで公家の職。朝廷の機嫌や、宮中の魔物に左右される危うい椅子よ。……武家が無理に座り続ければ、いずれ破綻する」

 家康の声が、低く、重くなった。

「ゆえに、わしは『将軍』を選んだ。……頼朝公以来の、武家の掟(システム)に戻るのだ。……朝廷の干渉を受けぬ、武士による、武士のための政府。……それならば、秀吉公が失敗した『世襲』も、盤石なものにできる」

「……なるほど。秀次公の悲劇を繰り返さぬための、将軍職でございますか」

「うむ。……わしは二年で辞める」

「……なんと」

 秀親が驚愕する。

「二年後に、将軍職を秀忠に譲る。……そうすることで、天下に知らしめるのだ。『将軍は徳川が代々継ぐものである』とな。……これにより、豊臣家は完全に過去の遺物となる」

 家康は、身を乗り出した。

「だが、そのためには西国の抑えが不可欠じゃ。……秀忠が江戸で政務を執る間、誰が西の蓋(ふた)になる?」

 家康の視線が、秀親に向けられた。

 だが、秀親は自信を持って答えた。

「ご心配には及びませぬ。……北ノ庄(越前)には、**結城秀康(ゆうきひでやす)**兄上がおられます」

 秀親は、越前の方角を向いた。

「秀康兄上は、武勇絶倫。石高も六十七万石と強大です。……あの兄上が睨みを利かせている限り、西国大名も軽挙妄動はできますまい。……それに伏見城も再建されました」

 秀親にとって、結城秀康(家康の次男)は頼れる叔父であり、武人として尊敬する存在だった。

 彼がいる限り、自分がわざわざ尾張を出て、京へ乗り込む必要はないと考えていた。

「……ふむ。秀康か」

 家康の表情が、一瞬だけ曇った。

 秀康の武勇は認めている。だが、彼は豊臣秀吉の養子だった期間が長く、豊臣家への愛着も強い。そして何より、彼が持つ「天下への未練」を、家康は警戒していた。

「……そうよな。秀康がおれば、安泰か。……今は、な」

 家康の言葉の裏にある不穏な響きに、秀親はまだ気づかなかった。

 東には将軍・家康と秀忠。

 西には結城秀康。

 そして真ん中の尾張に自分。

 この布陣は完璧に見えた。

 だが、人の命という計算できない要素が、やがてこの完璧な布陣を崩し、秀親を運命の地・伏見へと誘うことになる。

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