第8話 江戸の秀忠
慶長六年(一六〇一年)夏。
武蔵国、江戸。
かつて太田道灌が築いた湿地帯の城は今、天地がひっくり返るような大改造の真っ只中にあった。
「天下普請(てんかぶしん)」。
諸大名を動員して行われる、巨大な惣構(そうがまえ)の堀の掘削と、城下町の整備。土埃が舞い、数万の人足たちの活気が熱気となって渦巻いている。
その工事現場を見下ろす高台に、徳川秀忠は立っていた。
二十三歳。
関ヶ原での遅参という汚名を背負いながらも、父・家康の名代として、この新都の建設指揮を執っている。
「……埃っぽいな、江戸は」
秀忠は、手ぬぐいで顔を拭った。
その横顔には、以前のような頼りなさは消え、為政者としての苦悩と責任感が滲んでいる。
「若殿。……埃は繁栄の証にございます」
背後から声をかけたのは、家康の懐刀・本多正信である。
この老獪な参謀は、今は秀忠の補佐として江戸にいる。
「正信か。……西(大坂)の様子はどうだ」
「豊臣家は、依然として秀頼公を擁し、威勢を張っております。……京や大坂の民衆も、まだ徳川より豊臣に心を寄せておりましょう」
正信は、試すような目つきで秀忠を見た。
「それに……尾張の秀親殿も、七十万石の太守として着々と力をつけておられるとか。……三河の古参どもを完全に掌握し、その武威は西国にも轟いております」
「……」
「若殿。……二匹の虎が並び立てば、いつか噛み合うのが世の常。……秀親殿の『力』が、大きくなりすぎているとはお思いになりませぬか?」
正信の言葉は、毒を含んでいた。
秀吉が仕掛けた「競わせる」という呪いを、身内の家臣でさえ懸念しているのだ。
秀忠は、ふっと笑った。
「正信。……お前ほどの知恵者でも、あやつのことは分からぬか」
「は?」
「あやつは、わしの影だ。……影が濃く、大きければ大きいほど、光であるわしも輝く。……わしは秀親を疑わぬ」
秀忠の瞳には、一点の曇りもなかった。
正信は、数瞬の沈黙の後、深々と頭を下げた。
「……失礼仕りました。……若殿も、内府様(家康)に似てこられましたな」
***
数日後。尾張国、清洲城。
夜更けの執務室で、松平秀親は一通の書状を読んでいた。
差出人はなく、封蝋(ふうろう)に葵の紋だけが押されている。
江戸の秀忠からの直書(じきしょ)である。
内容は、公的な報告ではない。
『江戸の普請は順調だが、水が悪い。美味い茶が飲みたい』
『正信がうるさい。古狸をどうにかしてくれ』
といった、愚痴に近い私信だ。
秀親は、文を読みながら声を上げて笑った。
「兄上も、随分と苦労されているようだ」
傍らで茶を点てていた妻・千世が、不思議そうに首をかしげる。
「殿。……そのような他愛ない文を、なぜそのように嬉しそうに……?」
「千世。……これはただの愚痴ではない。暗号だ」
秀親は、文を火鉢にかざした。
「『水が悪い』は、江戸に入り込んだ間者(スパイ)が多いということ。『正信がうるさい』は、家臣団の引き締めが必要だということだ」
秀忠は、表向きは「温厚な若殿」を演じつつ、秀親にだけは本音と、裏の支援要請を送ってきているのだ。
「よし。……江戸へ『水』を送ろう」
秀親は、懐から筆を取り出した。
「木曽の檜(ひのき)を大量に江戸へ送る。……その運搬人に、我が配下の『草(忍者)』を紛れ込ませる。彼らに江戸市中の不穏分子を洗わせ、兄上の手足とさせよう」
千世は、目を丸くした。
「……そこまでなさるのですか」
「ああ。……兄上は、江戸で『光』の政治をせねばならん。汚い掃除は、遠く離れていても私がやる」
秀親は、文を燃やした灰を見つめた。
「俺と兄上は、離れていても一つの生き物だ。……東の頭脳と、西の爪。二人で一つだ」
***
一ヶ月後。
江戸城に、尾張から大量の極上木材が届けられた。
普請奉行たちは狂喜し、秀忠も公に秀親へ感謝状を送った。
だが、その木材と共に江戸入りした数十名の「職人」たちが、夜な夜な市中の怪しい浪人たちを監視し、排除していることを知る者は、秀忠と正信だけであった。
江戸城の天守台。
夕焼けに染まる関東平野を見つめながら、秀忠は呟いた。
「届いたぞ、秀親」
秀忠は、西の空を見上げた。
そこには、七十万石の巨大な防波堤となって、自分を守り続けてくれる弟分の姿がある。
「お前が西を塞いでくれているから、わしは東を向いて国を作れる。……頼んだぞ、我が影よ」
東海道という一本の道で繋がれた、江戸と尾張。
二人の「秀」は、言葉を交わさずとも、完璧な連携で徳川の支配網を盤石なものにしつつあった。
だが、時は止まらない。
西の巨星・豊臣秀吉が遺した「負の遺産」が、徐々にその正体を現そうとしていた。
次に二人が動くのは、天下の形が変わる時――家康が**「征夷大将軍」**となる日である。
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