第7話 秀親という男
慶長六年(一六〇一年)三月。
三河国、岡崎城。
桜が舞い散る中、松平秀親は、徳川家発祥の地・岡崎城に入城した。
ここは、秀親の父・松平信康が城主を務め、そして二十一年前、謀反の疑いをかけられ切腹へと追い込まれた悲劇の場所である。
城内の空気は、重かった。
出迎えた三河の古参家臣たちは、皆、秀親の顔を直視しようとしない。
彼らは見ているのだ。秀親の背後に、無念の死を遂げた父・信康の亡霊を。そして、その息子が持つ「名」の不吉さを。
翌日。秀親は、徳川家の菩提寺である**大樹寺(だいじゅじ)**を訪れた。
歴代当主の位牌が並ぶ本堂。その奥にある信康の供養塔の前で、秀親は静かに手を合わせた。
「……若殿」
沈黙を破ったのは、かつて信康の傅役(もりやく)を務めていた老臣だった。彼は意を決したように、震える声で問いかけた。
「……恐れながら、お聞きしとうございます。……若殿は、その御名(おんあ)を……**『秀』**の字を、いかようにお考えでございますか」
松平秀親。
その問いに、付き従っていた成瀬正成らが息を呑んだ。
それは、徳川家中における最大のタブーだったからだ。
秀親は、ゆっくりと振り返った。
その瞳は、現在の三河ではなく、遠い過去――京の都を見ていた。
「……やはり、そこが気になるか」
秀親は、苦々しく笑った。
「そうだな。……これは、太閤(秀吉)殿下が徳川に仕掛けた、毒だ」
***
――回想。
文禄元年(一五九二年)。聚楽第。
当時、十二歳の秀親は、一つ年上の従兄・徳川秀忠(十三歳)と共に、天下人・豊臣秀吉の御前に平伏していた。
大陸出兵を控え、黄金色に輝く広間で、秀吉は傲然と彼らを見下ろしていた。
秀吉は、まず嫡男である秀忠を見た。
「うむ。……家康殿の嫡男よ。そちには余の名の『秀』を与えよう。今日から秀忠と名乗るがよい」
「ははっ。……ありがたき幸せ」
少年・秀忠が震えながら頭を下げる。
通常ならば、これで終わりだ。偏諱(へんき)を賜るのは、家の跡取り一人に限られるのが通例である。
だが、秀吉の濁った瞳が、隣に控える秀親に向けられた。
「……そちが、信康殿の子か」
秀吉がニタリと笑った。
「面構えが良い。……家康殿よりも、どことなく信長公に似ておるわ」
秀吉は、扇子で秀親の顎を持ち上げた。
その目は、獲物を弄ぶ猛禽類のそれだった。
「家康殿。……この子にも『秀』をやろう。名は、秀親とせよ」
控えていた家康の顔色が変わったのが分かった。
嫡男(秀忠)と、庶流(秀親)。
その二人に、同時に、同じ「秀」の字を与える。
それは、「徳川の跡目はどちらか分からぬ」と天下に公言するに等しい、悪意ある策略だった。
「競えよ」
秀吉は、少年の耳元で楽しげに囁いた。
「徳川の中で、どちらが真の『秀』たる器か。……二匹の虎が喰らい合う様を、余に見せてみよ。退屈な天下の、良い余興となろう」
それは、徳川家を内側から割り、自滅させるための種蒔きだった。
***
――現在。大樹寺。
秀親は、老臣たちの前で淡々と語り終えた。
「……太閤殿下の狙いは明白だ。私に野心を持たせ、兄上(秀忠)と争わせ、徳川の力を削ぐこと。……『秀』の字は、そのための火種だ」
老臣たちは青ざめた。
「なんと……。やはり、さような企みが……」
老臣は床に拳をついた。
「太閤殿下より賜った御名、おいそれと捨てることもできませぬ。……なれば若殿は、その呪われた名を背負い、兄君である秀忠様と争う宿命にあるとおっしゃるのですか……! これほど無慈悲なことがありましょうか!」
家臣たちの嘆き。それは、逃れられない「秀」の呪縛に対する絶望だった。
だが、秀親の声が、その絶望を切り裂いた。
「嘆くな」
秀親は立ち上がり、父・信康の供養塔を見上げた。
「私は『秀』の字を背負ったまま、兄上(秀忠)に膝を屈する道を選んだ。……同じ名を冠する私が、生涯をかけて兄上の『影』となること。……それこそが、あの猿(秀吉)の悪意を打ち砕く、唯一の方法だ」
そして、秀親は自身の名のもう一字について触れた。
「それに……下の『親』の字は、祖父上(家康)が必死に考えてつけてくれた名だ。徳川の始祖・**松平親氏(ちかうじ)**の『親』。……『秀吉の毒を、徳川の祖の力で抑え込め』という、祖父上の願いが込められている」
秀親は、老臣たちの目を見据えた。
「安心せよ、三河の者ども。……私は謀反など起こさぬ。この身に流れる信康殿の血も、太閤から受けた呪いの名も、すべては徳川の泰平のために使う」
一陣の風が吹き抜け、桜吹雪が秀親を包んだ。
その姿は、あまりに鮮烈で、そして悲壮だった。
逃れられない「呪い」を真正面から受け止め、それを「忠義」へと昇華させる若き主君。
「……若殿……ッ!」
老臣たちは、その場に泣き崩れ、平伏した。
疑いは消えた。
ここにあるのは、家康をも凌ぐかもしれない、強靭な精神(こころ)への畏敬の念だけだった。
「……参ろうか」
秀親は、憑き物が落ちたような顔で歩き出した。
隣に、妻・千世が静かに寄り添う。彼女もまた、夫が背負う名の重さを改めて知り、その手を強く握りしめた。
秀吉の策略は、失敗した。
毒は薬へと変わり、二人の「秀」――秀忠と秀親は、最強の「双璧」となって徳川の世を支えていくことになる。
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