第6話 妻・千世

慶長六年(一六〇一年)正月。

 尾張国、清洲城。

 新しい年が明けた。

 七十万石の太守として迎える初めての正月。城内は、挨拶に訪れる近隣の豪族や商人たちでごった返していた。

 その喧騒から離れた奥御殿で、松平秀親は膝枕で横になっていた。

「……あ奴ら、挨拶ばかりで飽きぬのか」

 不満げに呟く秀親の髪を、小さな手が優しく撫でている。

 正室・**千世(ちせ)**である。

 秀親より三つ年下の十八歳。

 父は「槍の又左」こと前田利家、母は芳春院(まつ)。さらに豊臣秀吉の養女として育てられた、加賀の宝石とも謳われる美少女である。

「殿。……皆様、殿のお顔を一目見たいのでございますよ。……もう少し辛抱なさりませ」

 千世は、鈴が鳴るような声で微笑んだ。

 その瞳には、夫への憧れと、少しの母性が宿っている。

「分かっておる。……だが、俺は根がせっかちなのだ。祖父上(信長)に似てな」

 秀親は身を起こし、千世が入れた茶を啜った。

「……加賀の義兄上(前田利長)から、文が届いた」

 秀親の言葉に、千世の表情が少し強張った。

 実家である前田家は、関ヶ原の折、一度は家康に謀反の疑いをかけられた。今は徳川に従っているが、その立場は依然として微妙である。

「兄は……何と?」

「『秀親殿の威光により、前田家は安泰である。今後ともよしなに』とさ。……大量の黄金と共に、随分と丁寧な文面だったよ」

 秀親は苦笑した。

 かつて五大老筆頭だった名門・前田家が、年下の若造に頭を下げている。それが今の秀親の権勢だった。

「千世。……安心しろ。そなたが俺の妻でいる限り、前田家には指一本触れさせん。……俺は、祖父上(家康)にもそう釘を刺してある」

 千世は、安堵の涙を浮かべ、秀親に深々と頭を下げた。

「……かたじけなく存じます。……亡き父・利家も、草葉の陰で喜んでおりましょう」

「礼には及ばん。……俺にとっても、加賀百万石は強力な後ろ盾だ。俺の方こそ、そなたのような良き妻をもらって果報者よ」

 秀親は、千世の華奢な肩を抱き寄せた。

 だが、次の瞬間、秀親の口から出た言葉は、先ほどまでの甘さを消し去るほど冷たかった。

「だがな、千世。……もう一つの実家については、保証できんぞ」

「……豊臣、のことでございますか」

 千世の顔色が青ざめる。

 彼女にとって、豊臣秀吉は二人目の父であり、大坂城はかつて育った我が家だ。

「大坂は、いずれ邪魔になる」

 秀親は、まだあどけなさの残る妻に対し、あえて残酷な真実を告げた。

「天下に二つの太陽はいらぬ。……徳川が泰平の世を築くには、豊臣という古い神輿(みこし)は解体せねばならん。……その時、俺は鬼になって大坂を攻めるかもしれん」

 秀親は、試すように千世を見つめた。

「それでも、俺についてこれるか?」

 部屋に沈黙が落ちた。

 千世の小さな手が、着物の裾をギュッと握りしめる。

 彼女は震える唇を噛み締め、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、父・利家と母・まつから受け継いだ「武家の女」の強さが宿っていた。

「……殿。私は、松平秀親様の妻にございます」

 千世は、はっきりと言った。

「嫁いだ以上、殿の敵は私の敵。……たとえそれが、かつての恩義ある家であっても、私は殿のお味方をいたします」

 千世は、秀親の胸に飛び込んだ。

「ですから……どうか、私を置いていかないでくださいませ。……地獄の底まで、お供いたします」

 それは、十八歳の少女が決めた、生涯をかけた覚悟だった。

 秀親は、愛おしさが込み上げ、妻を強く抱きしめた。

「……すまぬ。辛いことを言わせた」

「いいえ。……殿が鬼になるのなら、私は鬼の妻になりまする」

「ああ。……頼りにしているぞ」

 秀親は、窓の外に広がる冬の空を見上げた。

 守るべきものができた。

 この小さな温もりを守るためなら、自分は喜んで修羅になろう。

「千世。……春になったら、三河へ行こう」

 秀親は話題を変え、優しく微笑んだ。

「三河の連中は頑固だが、桜は見事だそうだ。……俺が生まれ、父・信康が死んだ場所だ。……そなたにも見せてやりたい」

「はい! ……楽しみにしております」

 二人は寄り添った。

 来るべき嵐の前の、束の間の平穏。

 だが、その「三河」こそが、秀親にとって避けては通れぬ、自身の出生の秘密と向き合う場所となることを、千世はまだ知らない。

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