第5話 清洲入城
慶長五年(一六〇〇年)十一月。
尾張国、清洲。
初冬の冷たい風が吹き抜ける中、二千の兵を従えた松平秀親の行列が、清洲城の大手門をくぐった。
沿道には、新しい領主を一目見ようと多くの領民がひれ伏している。
清洲は、かつて織田信長が天下統一の拠点とした都であり、商業で栄える活気ある町だ。直前までは猛将・福島正則が治めていたため、気風も荒い。
漆黒の馬に跨る秀親は、兜の緒を締め、鋭い眼光で町を見渡した。
(懐かしい匂いだ。……血と、銭と、野心の匂いがする)
母・徳姫から聞かされた祖父・信長の都。
三河の土着的な空気とは違う、革新の風がここにはある。
「殿、お着きになりましたぞ」
声をかけたのは、家康から秀親の補佐(という名のお目付役)として付けられた宿老、**成瀬正成(なるせまさなり)と竹腰正信(たけのこしまさのぶ)**であった。彼らは骨の髄まで「三河武士」であり、忠義厚いが、変化を嫌う保守的な面々でもあった。
***
清洲城、大広間。
最初の評定(ひょうじょう)が開かれた。
ズラリと並ぶのは、徳川譜代の重臣たちと、この地に残った旧織田・福島家臣団。
場の空気は、張り詰めていた。二十歳の若造に、この巨大な領国が治まるのか、という値踏みの視線が痛いほど突き刺さる。
筆頭家老の成瀬正成が進み出た。
「殿。まずは、城の守りを固めることが先決かと。……福島正則が去ったとはいえ、領内にはまだ不穏な空気が残っております。堀を深くし、櫓(やぐら)を増築し、質素倹約を旨として……」
いかにも三河武士らしい、堅実で地味な提案だった。
他の家臣たちも「左様、左様」と頷く。
「……くだらぬ」
秀親の一言が、その場の空気を凍らせた。
「は……?」
「堀を掘り、飯を減らして、どうやって国が富む? ……成瀬、そちの考えは『守り』の考えだ。田舎の三河ならそれでもよかろう。だが、ここは尾張だぞ」
秀親は立ち上がり、広間に掲げられた地図を扇子で叩いた。
「熱田の湊(みなと)、津島の商業。……ここには金を生む木がいくらでもある。まずは商人を呼び戻し、関所を緩め、物流を活発にせよ。城の改修など後回しだ」
成瀬が顔を紅潮させて反論する。
「な、何を仰いますか! 関所を緩めれば、間者(スパイ)が入り込みまする! 大御所様(家康)は、ここを『鉄壁の蓋』にせよと仰せられたはず!」
「蓋をするのは軍事であって、経済ではない!」
秀親の怒声が響き渡った。
若き主君の迫力に、歴戦の猛者たちがたじろぐ。
「よいか。……民が豊かになり、商人が集まれば、自然と情報は集まり、国力は増す。……貧しい国に、強い兵は育たぬのだ」
秀親は、祭壇に飾られた家康からの書状と、自らの腰に差した織田ゆかりの短刀を指し示した。
「私の中には、家康公の『慎重さ』と、信長公の『革新』、その両方が流れている。……古臭い三河のやり方だけで、私を縛ろうとするな」
その瞳には、かつて清洲から天下へ飛び出した魔王の如き、冷たくも熱い狂気が宿っていた。
成瀬と竹腰は、額に冷や汗を流し、深々と平伏した。
「……は、ははぁッ! 御見それいたしました……!」
この瞬間、七十万石の家臣団は、真の意味で秀親のものとなった。
***
評定の後。
秀親は一人、天守の最上階に立っていた。
夕日に染まる濃尾平野。
眼下には木曽川が流れ、遠く南には熱田の海が光っている。
だが、秀親の視線は足元の清洲の町ではなく、その東南にある台地――**「那古野(なごや)」**に向けられていた。
「……清洲は、狭いな」
独り言が風に舞う。
清洲は水害に弱く、これ以上の拡張は難しい。
巨大な経済圏と、鉄壁の要塞を両立させるには、新しい都市が必要だ。
「いずれは、あそこへ移るか」
秀親は、まだ何もない那古野の台地に、幻の巨城を思い描いた。
金の鯱(しゃちほこ)が輝く、難攻不落の城。
それを築く時こそ、徳川の世が盤石となる時だ。
「殿」
背後から、正室・豪姫が茶を持ってきた。
「皆様、震え上がっておられましたよ。……あまり古参の方々を虐めてはなりませぬ」
「虐めてなどおらん。……目を覚まさせただけだ」
秀親は茶を受け取り、苦笑した。
「彼らは、私を通して家康公を見ている。……だが、私は家康公ではない。私は私のやり方で、兄上(秀忠)の世を守る」
秀親は、東の空――江戸の方角を見つめた。
「江戸は、兄上が作る『政治の都』だ。……ならば私は、ここ尾張を『武と商いの都』にする。……兄上が光なら、私はこの地で、最強の影となる」
冷たい風が、二人の着物を揺らした。
尾張の虎は、檻の中で爪を研ぎ始めた。
その爪が西国の敵を引き裂く日が来るまで、まずはこの国を、日本一豊かな「兵站基地(へいたんきち)」へと変える。
若き支配者の野心は、清洲の冬空よりも高く、澄み渡っていた。
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