第3話 佐和山の亡霊

慶長五年(一六〇〇年)九月十八日。

 近江国、佐和山(さわやま)。

 関ヶ原の決戦から三日後。

 琵琶湖の畔(ほとり)にそびえる名城・佐和山城は、紅蓮の炎に包まれていた。

 「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と謳われた堅城も、主(あるじ)・石田三成不在の中、小早川秀秋ら裏切り組を先鋒とした一万五千の軍勢に包囲され、陥落しようとしていた。

 大手門前。

 松平秀親は、燃え落ちる天守を冷ややかな目で見上げていた。

 その顔は煤(すす)と返り血で汚れ、二十歳の若者とは思えぬ凄惨な気配を漂わせている。

「……落ちたか」

 秀親の足元には、城から脱出しようとして斬られた兵や、自害した女子供の遺体が折り重なっていた。

 三成の父・正継、兄・正澄らは天守に火を放ち、一族もろとも自害して果てた。

「若殿」

 家臣の大久保が、顔を歪めて報告に来た。

「……城内の者は、ほぼ全滅にございます。しかし、まだ隠れている女子供がいるやもしれません。いかがなされますか」

 秀親は、炎の照り返しを受ける瞳で、即答した。

「探せ。一人も逃すな」

「……は?」

「石田の血を引く者は、赤子に至るまで根絶やしにせよ。……情けは無用だ」

 大久保が息を呑む。

 だが、秀親は無表情のまま続けた。

「ここで情けをかけ、生き残った者が十年後に復讐の剣を取れば、また戦になる。……数人の命を救うために、将来の万人の平和を脅かすわけにはいかん」

 秀親は、太刀の柄(つか)を握りしめた。

「恨むなら、私を恨め。……すべての業(ごう)は、私が背負ってやる」

 その日、佐和山城は地獄と化した。

 それは、戦国乱世の最後の残滓(ざんし)を焼き尽くすための、必要な儀式であった。

***

 九月二十一日。

 伊吹山中に逃れていた石田三成が、ついに田中吉政の追っ手によって捕縛された。

 三成は、大津の家康の本陣へと護送された。

 大津城、城門前。

 縛り上げられ、ボロボロの着物姿で引き立てられてくる三成の姿があった。

 沿道には、彼を罵倒しようと多くの兵や民衆が集まっている。

 その人垣を割り、秀親が進み出た。

 秀親は馬から降り、三成の目の前に立った。

「……石田治部少輔(じぶのしょう)殿か」

 三成はゆっくりと顔を上げた。

 数日間の逃亡生活でやつれ果ててはいたが、その眼光だけは未だ鋭く、理知的な光を失っていなかった。

「……貴殿は、松平秀親か。……信康様の忘れ形見と聞くが」

「いかにも」

「フン……。信長公と家康公の血を引く若造が、勝ち誇りに来たか」

 三成は嘲るように笑った。

「勝てば官軍、負ければ賊軍。……だがな、秀親。義は我にあり。家康ごとき古狸に、豊臣の天下を盗ませてなるものか」

 その言葉に、周囲の徳川兵が色めき立ち、槍を突き出そうとした。

 だが、秀親は片手でそれを制した。

「……義、か」

 秀親は、三成の目を覗き込んだ。

「治部殿。貴殿の言う『義』とは、豊臣家のための義であろう。……だが、民にとっての義とは何だ?」

「……何?」

「民にとっては、誰が天下を治めようと関係ない。……ただ、戦がなく、明日食う飯があればそれでよいのだ。貴殿の純粋すぎる義は、この国を二つに割り、何万もの民を殺した」

 秀親の声は静かだったが、鋭い刃のように三成の心をえぐった。

「正しすぎる正義は、時に悪よりもタチが悪い。……貴殿は、頭が良すぎたのだ」

 三成は口を開きかけたが、何も言えなかった。

 秀親の言葉が、彼自身の抱えていた矛盾を突きいていたからだ。

 三成は、ふいと顔を背けた。

「……殺せ。負け犬の説教など聞きたくない」

「殺しはせぬ。……法に則り、裁くだけだ」

 秀親は背を向けた。

 その背中には、佐和山で背負った「修羅」の影が色濃く落ちていた。

***

 その夜。

 大津城の一室で、秀親は徳川秀忠と酒を酌み交わしていた。

 秀忠は、三成の捕縛と佐和山の惨状を聞き、沈痛な面持ちで杯を見つめていた。

「……三成も、哀れな男よな。太閤殿下(秀吉)への忠義ゆえに、あそこまで……」

「兄上は優しいな」

 秀親は苦笑した。

「だが、その優しさは、今は胸の内にしまっておいてくだされ」

「秀親。……佐和山では、女子供まで斬ったと聞いた。……本当か」

 秀忠が、探るような目で秀親を見る。

 秀親は、杯を干し、平然と答えた。

「本当です」

「なぜだ! 戦は終わったのだぞ!」

「終わらせるために、やったのです」

 秀親は、強い口調で言った。

「生かしておけば、必ず『石田の遺児』を旗印に担ぐ者が現れます。……兄上の治める世に、復讐の種を残すわけにはいかぬ」

 秀親は、自身の着物の裾を握りしめた。

「人殺しの汚名は、すべて私が被ります。……兄上は、清廉潔白な将軍として、民に慈悲を施してください。汚れ役は、影である私の仕事です」

 秀忠は言葉を失った。

 目の前の従兄弟が、自分のためにあえて鬼になっていることを痛感したからだ。

「……すまぬ、秀親。……わしは、お前にばかり……」

「よいのです。……さあ、明日は京へ入ります。六条河原での処刑、私が検分いたしますゆえ、兄上は見ずとも構いませぬ」

 秀親は立ち上がり、障子を開けた。

 夜空には、欠けた月が寒々しく輝いていた。

 佐和山の亡霊たちが、風に乗って泣いているような気がした。

 だが、秀親は振り返らなかった。

 この道を歩むと決めた以上、亡霊の相手をしている暇などない。

 次は、生きている化け物たち――論功行賞を待つ外様大名たちとの戦いが待っているのだ

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