第2話 遅れてきた兄
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、正午。
関ヶ原の戦況は、劇的に動いた。
松尾山に陣取っていた小早川秀秋が、突如として西軍・大谷吉継の陣へとなだれ込んだのである。
裏切り。
その衝撃がドミノ倒しのように伝播し、頑強だった西軍の陣形が音を立てて崩れ去った。
「好機ッ! 畳み掛けろぉッ!」
前線にいた松平秀親は、返り血で赤く染まった顔を拭いもせず、声を張り上げた。
愛馬も、鎧も、泥と血にまみれている。
だが、その瞳だけは異様に冴え渡っていた。
逃げ惑う敵兵を追う。斬る。
秀親の太刀筋に迷いはない。織田の血が、戦場の高揚感を全身に送り込んでいる。
(勝った。……これで、徳川は生き残った)
だが、安堵よりも先に、秀親の脳裏をよぎったのは、未だ到着せぬ叔父の顔だった。
――間に合わなかったな、兄上。
午後二時過ぎ。
関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の圧勝で幕を閉じた。
首実検が行われ、勝鬨(かちどき)が上がる中、徳川本隊三万八千を率いる徳川秀忠が、この歴史的な戦場に姿を現すことはなかった。
***
九月二十日。近江国、大津城。
関ヶ原での勝利から五日後。
家康は京への進軍の途中、大津城に入っていた。
そこへようやく、信州の山を越え、必死の行軍を続けた秀忠が到着したのである。
城内の広間。
重苦しい空気が漂っていた。
上座に座る家康は、不機嫌を通り越して、能面のような無表情を貫いている。
側近の本多正信が、脂汗を流しながら恐る恐る告げた。
「……秀忠様が到着された由にございます。お目通りを……」
「会わぬ」
家康は茶を啜ったまま、顔も上げずに吐き捨てた。
「天下分け目の大戦(おおいくさ)に遅れるような総大将になど、会う必要はない。……顔も見とうないわ」
正信が言葉を詰まらせる。
家康の怒りは本物だ。これは単なる遅刻への叱責ではない。
「徳川の武威」を天下に示し、次期将軍としての器を証明すべき初陣で、秀忠は一兵も動かさずに終わった。
この失態は、これからの徳川の支配体制に大きな影を落とす。
その時、襖(ふすま)が静かに開いた。
秀親である。
「……秀親か」
家康がちらりと孫を見る。
秀親は、関ヶ原での修羅の顔を捨て、平服で深く頭を下げた。
「祖父上。……秀忠様を、お許しくだされ」
「ならぬ。……あれは徳川の恥だ。真田ごとき小勢に翻弄され、この大事な一戦を棒に振ったうつけ者よ」
家康の声には、底冷えするような軽蔑が含まれていた。
秀親は顔を上げた。二十歳の若者とは思えぬ、据わった目つきだった。
「では、秀忠様を廃嫡なされますか」
その言葉に、正信が「あっ」と声を上げる。
「廃嫡して、誰を継がせるのです。……私ですか? それとも結城へやった秀康兄上ですか? あるいは、まだ幼い弟君たちですか?」
秀親は、家康の目を真っ直ぐに見据えた。
「ここで秀忠様を拒絶すれば、家臣団は動揺し、徳川は割れます。……戦には勝ちましたが、お家が滅びては意味がありませぬ」
「……口答えするか、秀親」
「事実を申しております。……それに」
秀親は、声を和らげた。
「あの霧の中で、祖父上は私に仰った。『修羅になれ』と。……私が修羅となり、手を汚したのは何のためですか。秀忠様という『光』を守るためではありませぬか」
家康の手が止まった。
秀親は続けた。
「秀忠様は、徳川の明日そのものです。ここでその芽を摘んで、我々は何のために命を懸けたのですか」
家康は、持っていた茶碗をゆっくりと置いた。
長い、長い沈黙が流れた。
家康も分かっているのだ。感情では許せなくとも、政治的には許すしかないことを。
ただ、怒りの持って行き場がなかっただけだ。
「……連れて参れ」
***
次の間。
旅装を解くこともできず、青ざめた顔で平伏している青年がいた。
徳川秀忠。二十一歳。
秀親より一つ年上だが、その温厚で育ちの良い顔立ちは、今の極限状況には不釣り合いなほど頼りなく見えた。
「……兄上」
秀親が声をかけると、秀忠は弾かれたように顔を上げた。
「秀親……! 父上は……大御所様は……ッ」
秀忠の声は震えていた。
秀親は、秀忠の前に膝をつき、その冷え切った手を両手で包み込んだ。
「お会いくださるそうです。……さあ、参りましょう」
「だが、わしは……合わせる顔がない。真田に足止めされ、多くの兵を無駄にし、一番大事な時に父上の役に立てなかった……」
涙を流す秀忠。
その姿を見て、秀親の胸に熱いものが込み上げた。
この人は、優しいのだ。自分の失態よりも、兵を死なせたこと、父の期待を裏切ったことを純粋に悔いている。
戦場では役に立たない優しさかもしれない。
だが、血生臭い乱世が終わった後には、この優しさこそが天下を治める力になるのではないか。
秀親は、直感的にそう感じた。
「兄上」
秀親は、強く秀忠の手を握った。
「戦は終わりました。……汚れ仕事は、すべて私が済ませました」
「秀親……」
「兄上は、ただ堂々としていてください。……失敗したことを悔いるそのお心があれば、家臣たちは必ずついて参ります」
秀親は微笑んだ。
それは、弟が兄に向ける笑顔ではなく、慈愛に満ちた守護者の顔だった。
「さあ、父上の前へ。……私が横におりますゆえ」
***
対面の間。
秀忠は、家康の前で額を畳に擦り付け、謝罪した。
家康はしばらく無言で息子を見下ろしていたが、やがて短く溜息をついた。
「……次は、遅れるなよ」
たったそれだけの言葉だった。
だが、それは事実上の許しであり、後継者としての再認でもあった。
秀忠は、嗚咽を漏らしながら何度も頷いた。
その光景を、秀親は部屋の隅から静かに見つめていた。
家康の鋭い視線が、一瞬だけ秀親に向けられた。
『貸しだぞ、秀親』
そう言われた気がして、秀親は微かに頭を下げた。
関ヶ原という嵐が去り、徳川の天下への道が開かれた。
だが、それは同時に、秀親自身が「表舞台で手柄を誇る道」を捨て、「秀忠を支える側」へと回ることを決定づけた瞬間でもあった。
光と影。
その運命の歯車が、いま静かに噛み合い始めた。
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