天の双璧

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第1話 魔王の血、霧の関ヶ原

慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、午前七時。

 美濃国、不破郡関ヶ原。

 世界は、乳白色の闇に包まれていた。

 数寸先も見えぬ濃き霧。その湿った空気には、土の匂いと共に、十五万の将兵が放つ脂汗と鉄の臭いが充満している。

 徳川家康の本陣、桃配山(ももくばりやま)。

 床几(しょうぎ)に腰を下ろす**松平秀親(ひでちか)**は、じっとりと濡れた兜の緒を締め直した。

 秀親、二十歳。

 亡き父・松平信康の面影を色濃く残し、その瞳には母方の祖父・織田信長の冷徹な光を宿す若武者である。

「……来ぬか」

 秀親は、東の空――中山道の方角を睨みつけた。

 本来、そこに翻っているはずの「徳川」の本隊、三万八千の大軍が見えない。

 総大将を務めるのは、秀親の叔父であり、たった一つ年上の、兄弟同然に育った徳川秀忠である。

「若殿」

 家臣の大久保が、蒼白な顔で耳打ちする。

「……木曽路からの報せ、途絶えております。秀忠様は未だ信州上田にて、真田の足止めを食らっている由。……この美濃には、間に合いますまい」

「分かっておる」

 秀親は奥歯を噛み締めた。

 敵の西軍・石田三成の陣容は完璧だ。山を埋め尽くす大軍。

 対する家康の本陣は、あまりに手薄。

 この霧が晴れた瞬間、徳川の天下が始まるか、それとも家康の首が飛ぶか。

「……御前へ参る」

 秀親は立ち上がった。

 今、震える祖父・家康を支えられるのは、徳川の血族たる自分しかいない。

***

 本陣の幕内。

 そこは、静寂という名のパニックに支配されていた。

 天下人・徳川家康は、床几の上で爪を噛んでいた。爪先からは血が滲んでいるが、気付く様子もない。

「……信州からの急使はまだか! 秀忠は、山を越えられんのか!」

 家康の怒号が飛ぶ。側近の本多正信も、今日ばかりは掛ける言葉を失っている。

 秀忠が来ない。それはつまり、徳川譜代の精鋭がいないまま、頼りにならない外様大名(福島正則ら)と共に戦わねばならぬことを意味する。

「内府(だいふ)様」

 秀親が進み出ると、家康はギロリと孫を睨みつけた。

 その目は充血し、死への恐怖と、それをねじ伏せようとする狂気が混在していた。

「……秀親か。……笑いに来たか。秀忠という頼みの綱を失い、裸同然となったこの祖父を」

「まさか。……私も共に死ぬ覚悟を決めに参りました」

 秀親の言葉に、家康の手が止まった。

「……死ぬ、か。……そうよな。今日、わしは死ぬかもしれん」

 家康は、震える手で茶碗を掴んだ。

「秀親。……正直に申せ。この戦、勝てると思うか」

「……分かりませぬ」

 秀親は嘘をつかなかった。二十歳のリアリズムが、そこにあった。

「小早川秀秋の動向、そして南宮山の毛利。……不確定な要素が多すぎます。霧が晴れてみなければ、どちらに賽(さい)が出るか、神のみぞ知る」

「そうよな……」

 家康は茶を一気に飲み干し、茶碗を地面に叩きつけた。

 パリン、と乾いた音が響く。

「だが、わしは生きねばならん! 乱世を終わらせるまでは、死んでも死にきれんのだ!」

 家康は立ち上がり、秀親の襟首を掴んで引き寄せた。

 老人のものとは思えぬ握力だった。

「秀親! 見ろ、あの霧の向こうを」

 家康が指さす先には、見えざる敵の大軍がいる。

「秀忠はおらん。……ならば、誰が徳川の武威を示す? 誰が敵を恐れさせる?」

 家康の瞳が、秀親を射抜く。

 それは取引でも、将来の約束でもない。ただの、血の叫びだった。

「お前しかおらんのだ、秀親。……お前の体には、あの『魔王(信長)』の血が流れておる。その狂気を、今ここで解き放て!」

「……」

「なりふり構うな! 鬼になれ! 秀忠の分まで暴れ回り、石田三成の肝を冷やしてやれ! ……勝たねば、明日はない!」

 家康はただ、目の前の死地を切り開くための「凶器」を求めていた。

 その純粋な渇望が、秀親の腹の底にある何かを呼び覚ました。

「……承知いたしました」

 秀親の体内で、黒く、熱いものが渦巻く。

 そうだ。自分は、この瞬間のために生まれてきたのかもしれない。

「この身に宿る魔王の血、すべて徳川のために使いましょう。……祖父上は、ただドカリと座っていてくださればよい」

 秀親は不敵に笑った。

「私の背中を見ていれば、勝利は転がり込んで参ります」

***

 午前八時。

 一陣の風が吹き抜け、霧が薄らいだ。

 瞬間、轟音が大地を揺らした。井伊直政の発砲だ。

 目の前に広がるのは、地平線を埋め尽くす西軍の大軍勢。

 数では負けている。地利も敵にある。

 だが、秀親は黒糸威(くろいとおどし)の兜の緒を締め直し、愛馬に跨った。

「者ども、聞けぇッ!!」

 秀親が太刀を抜き、天に突き上げる。

「我らが本隊は遅れている! だが、それがどうした! 我らがここにおる!」

 兵たちが秀親を見上げる。その姿は、かつて桶狭間で数万の敵に突っ込んだ、若き日の織田信長そのものだった。

「我らが背には、家康公がおられる! 一歩も退くな!」

 秀親の咆哮が、戦場に響き渡る。

「我らは徳川の『牙』となりて、敵を喰らい尽くすのだ! かかれぇぇッ!!」

 雄叫びと共に、秀親隊が敵陣へと雪崩れ込む。

 勝敗はまだ見えない。

 確かなのは、この修羅場を越えねば、未来はないということだけだ。

 魔王の血が沸騰する。

 松平秀親、二十歳。

 生涯で最も長く、最も熱い一日が始まった。

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