第六話
冬の終わりが迫り、春の陽気が徐々に近づいてきた頃。
室伏は妻の不貞行為を世話になっている画材店の主人から(その相手は室伏が懇意にしていたある若い画家であることも)知った。同時に母親がこなしている習い事のために、夥しい月謝が家計を圧迫しているもクレジットカードの支払い明細から確認した。
彼はそれらの事実に怒りを覚えなかった。むしろ、自分の築いてきた家庭が自らの意思から離れていく様に安堵を覚えた。
彼は精神を苛んできた疼痛から解放されようとしていた。
煩わしさから解き放たれた彼は仕事によりのめりこむようになった。それは自身の稼ぎに漸近にする出費を賄うためでもあるが、制作の締め切りが近づいたためでもあった。彼は教室で絵画を教え、それを終えるとアトリエに籠って油絵を描き、帰宅することさえ稀となった。団地の住民らはそんな彼の姿に堅忍不抜の念を抱き、そんな彼を支える彼女らを尊敬した。
室伏の家庭像は団地を越え、絵画教室にも届き、人口に膾炙された。行く先々で彼は「大丈夫ですか?」、「苦労してますね」といった心配の言葉をかけられた。彼はそれらの言葉にはにかみ、「でも、家庭を支えるためですから」と一言返すだけであった。事実、彼はその言葉以上の感情を抱いていなかった。
直美と静子と言えば、家庭を支える男の外聞に理解を示し、そこに拒絶の情を抱くことはなかった。彼女らは彼個人に対する憎悪を抱いてはいたものの、清廉潔白な家庭像については喜びさえ覚えていた。
歪な家庭はその形を保ったまま娘の命日を迎えた。
その日は彼が描いていた油画が展示される展覧会の初日であった。だが彼ら家族は一周忌に出席していたため、画廊には出向けなかった。
彼の家庭状況が人に知られていたということもあり、展覧会には彼らの知り合いの多くが訪れていた。そして六十号のキャンバスに描かれた絵の前で、彼らの多くは立ち止って食い入るようにそれを鑑賞した。
夜空を焼き尽くさんばかりに煌々と燃える焚火、業火のうちには一匹の子羊だと見受けられる薄黒い影。それを座って囲うのは、夫婦と見受けられる初老の男女、皺だらけの手を火にかざしている老婆。その者たちは、物乞いの様な薄汚い布で身を包み、顔には和やかな笑みを携えていた。
絵画の題名は『焼失』だった。
鑑賞した者たちは彼の精神衛生に対する不安、それを支えた二人の女性に対する感嘆、二つの情を抱き、その情の渦の中で彼ら家庭の幸福を願うのであった。
焼失 鍋谷葵 @dondon8989
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