第五話

 晩秋は厳寒なる冬に姿を変えた。室伏の家庭は季節と同様に冷え切っていた。


 もはや、夫と妻の間に会話が生じることはなく、母親と息子の間にさえ言葉はなかった。


 彼らはただ家という空間を共有する他人となっていた。


 相変わらず室伏が帰ってくるのは深夜であった。二人が寝静まり、生活の温もりが冷え切った食卓で、彼はコンビニ弁当を食べた。水分子の振動によって熱を持った幕の内弁当は、彼女らと食卓を囲んでいた時には感じられなかった味を持っていた。たった一人の食事は、彼に生活の豊かさを与えた。


 家庭内で深められた孤独は彼の意識を変革した。家庭に対する自己犠牲の大義は失われた。身を粉にして働く理由は、当初の家計の安定や贖罪のためではなく、利己的な保身へに変質した。


 働いている間、彼は自由であった。顔を合わせなくとも胃が痛むほど気まずい朝、勤労の慰めとしての食事さえ用意されていない夜、自身の不必要性をひしひしと感じさせてくる家庭は牢獄と化した。そこから脱し、自由な芸術と奔放な子供らと触れ合っている時間は、彼が彼でいられる唯一の時間であった。彼はそこに耽溺し、責任を覚えていた家庭には無関心を示した。


 一日のルーティンを終えた彼はシャワーを浴び、冷たい布団に潜る。一年前までは、子供特有の暖かさと匂いが染みついていた寝床には、線香と体の臭いだけが残っていた。かつての余韻は幾回の洗濯によって消え去り、新しい自分によって上書きされていた。彼はこれを感ずる度、家庭の温もりは随分と遠い昔に失われたのだと振り返った。


 明朝、酷寒に負けず起き上がった室伏は、トーストをインスタントコーヒーで流し込み、愛娘の遺影が飾られた小さな仏壇に線香を上げてアトリエに向かった。来春の展覧会に向けた油絵のために。


 夫が出払った音を確認した直美は朝の支度を簡単に済ませた。彼女は安っぽいコーヒーの匂いが残る寒々とした台所で、二人分の朝食を作り始めた。彼女は自身の不貞を許し、夫への冷たい対応に同調する継母に仲間意識を持った。もちろん、間接的に娘を殺した継母に対する憎悪もあったが。子供に比べて余命僅かである人間が生に執着していることは耐え難かった。だが彼女はその感情を消化した。『外聞だけが良く、家庭を顧みない夫への理解』という共通項の作用によって、彼女は合理的に情を変質させたのだ。


 白米が炊け、味噌汁が出来上がり、目玉焼きと沢庵が食卓に並べられたころ、支度を済ませた静子が食卓に着いた。配膳を済ませた直美は静子の向かいに座った。二人は「おはようございます」と、淡白な声音で挨拶を交わし、温度と味のある朝食を食した。二人が囲う食卓では情夫と会うための定型句である「今日も出かけてきます」と、「ええ、最近はより寒くなってますから、暖かい恰好で出かけてきてください」という静子の贖罪の言葉だけが交わされた。


 二人分の食器を洗うのは静子の役割だった。皺が刻まれた手は冷たい水道水に濡れて赤らんだ。熟練の手つきで洗い物を終わらせたとしても、冬の冷水は手に痛みを覚えさせた。


 家事によって生じる臭いは食卓にまで届く線香の香りを覆った。直美であれば油、静子であれば洗剤。それらは居心地の悪さの根源となる香りを意識から遠ざけた。彼女らはこの作用を自覚し、感謝していた。夫が上げた線香の香る仏壇に手を合わせ、頭を下げる行為そのものを一瞬間でも生活から切り離す作用は、彼女らの心に平穏な日常を覚えさせてくれたのだから。


 線香の匂いはさらに覆われる。


 静子が食器を洗い終えたころ、直美は安物ではあるが見かけは上等に見える黒のファーコートを着て継母の背後に立った。廉価な香水の匂いを漂わせる彼女は、静子の背に向けて「行ってきます」と一言。静子は「気を付けてね」と、いつからから形式化された言葉を注いだ。


 直美を見送った静子は和室でぽつねんとコーヒーを飲んだ。赤らみを帯びた手は、乾燥のために照りを帯びていた。彼女はマグカップを座卓に置くと、その傍らの手帳に手を伸ばした。予定を確認するために広げた当月のページには、習い事の予定がびっしりと書き込まれていた。編み物、陶芸、活け花……、種類を上げればきりがないが、彼女は複数種類の習い事にのめり込んでいた。それは自らの夫によって奪われた時間を取り戻すための反動であり、夫と同じ言動を取る息子への復讐であった。


 静子はマグカップを洗い、書道教室に向かうための支度を終えると、仏壇の前に座った。彼女は佳奈美の写真を一瞥することなく、だらりと煙を流す線香を消した。ガスコンロに、仏壇、火の元の点検をすべて終えた彼女は、誰もいない住まいに「行ってきます」と、言葉を放ると、冬の寒々とした曇天のもとに歩み出していった。その誰もいない団地の一室には、線香の残り香だけが漂っていた。


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