第四話
夏を越え、秋が深まった頃、彼らの家庭は二分化された。家庭を支える男には夕食すら用意されず、形式的に整えられた団欒の朝さえも消え去っていた。肌寒い晩秋の朝、その食卓に香るのは、別個の朝食と線香の匂いだけであった。
室伏はマーガリンを塗った食パンを二枚、トースターで自ら焼き、それをインスタントコーヒーで流し込んだ。彼はそうやって一人で朝食をとり、寝ている者たちを起こさぬよう、慣れた足取りで薄暗い晩秋の早朝に消えていった。彼は家庭が向けてくるこの態度に、孤独を覚えなかった。薄暗い和室に置かれた小さな仏壇に線香を上げる度、贖罪の一部としてこれを受け入れた。
室伏が家から出ていく音、襖から漏れ出る線香の煙、それらを感知すると二人は目を覚ました。重い瞼を開け、布団からゆったりと抜け出る二人の動作は似ていた。夫婦の居室、和室と繋がる居間、空間が異なったとしても二人は似た動作を示した。彼女らは薄暮の中で顔を合わせても、「おはようございます」と、一言交わすだけで他の言葉は何も発しなかった。それは互いに性質の異なる化粧を終え、同じ食卓で、異なる品を食べるときにも変わらなかった。
しかし事務的な連絡だけはただの一度も絶えなかった。
静かで、薄ら寒く、インスタントコーヒーと紅茶、線香が一緒くたになった鼻につく臭いの中、直美はしばしば「今日は出かけてきます」と言った。はじめ、それは疑り深く、慎重な声音だったが、静子が「わかりました」と同じ言葉しか返さないことを理解すると軽妙なものへと変質した。
義理の娘が何を目的で出かけているのか、それを知らない静子ではなかった。化粧で若さを取り繕い、体の輪郭を浮かび上がらせる黒い服で色気を醸し出す女の素性は、歳を重ねた女からすれば容易に把握できた。義理の娘に情夫がいること、息子よりもその男に惹かれているということを。
静子はいつでもそのことを息子に告発できたが口を閉じた。それは息子に対する憐れみ、家庭の体裁を守るためではない。確かに心の片隅で、彼女は情夫に妻を取られた息子を憐れんでおり、これが生じてしまった家庭に恥を覚えていた。
一方、息子への憎悪も増長していた。そのため彼女は息子を抱擁せず、「父親と同じような末路を辿れ」と呪詛をかけた。この憎悪を由来とする呪いに加え、愛娘を老女の命ために失った直美への謝辞も突き放しの理由であった。静子風に言えば、「私は直美さんのために黙ってます。大体、私はここにいてはならない人間なんですから。ですから、楽しんできてください」というようになる。彼女は生き写しを失い、心に深い傷を負った一人の母に、そうやって許しを請うっていた。
自分を苦しめてきた男たちへの復讐心と、将来が明るかっただろう佳奈美と直美に対する贖罪のため、静子はぎこちない微笑を常に携えた。そして朝日の白い光が街に充満し、ほの温かくなったころ、夫に遅れて『自らの仕事』に向かう女は継母の虚構の上で胸を躍らせていた。
夫は妻の不貞を知らされず、午前中は自身の制作に邁進し、午後は各種教室で懸命な指導を行っていた。特に、小学生を相手にする絵画教室では、カリキュラムに独自性を盛り込むなど精力的に取り組んだ。
薄暗い朝と真っ暗闇の夜、その間に挟まれた微かに暖かい昼間帯に行われる子供たちとの交流は、彼の存在を現実から遊離させた。家庭から向けられる憎悪をルーティンの中に嵌め込んだとしても、彼は痛みを覚えない鈍感ではなかった。彼女らへの贖罪の意識をもっていたとしても、時として不条理を覚えた。それは精神を蝕み、贖罪の意識が家庭に対する憎悪へ変質する瞬間を生活に生じさせた。彼は迸る感情に、罪業の念を抱き、深く落ち込んだ。不正の瞬間は徐々に生活を圧迫した。
彼の仕事への大義は、徐々に『家庭を守るため』から乖離していき、『自身を守る』という利己心に依ったものに変わった。
自己弁護の方針は純白の少年少女らに対する奉仕に変質した。自身に悪感情を向けず、朗らかな微笑を注いでくれる純粋な者たちは、彼の精神を理想へと放った。理想の中に浸る室伏は、子供らが画用紙に描く絵を眺める度、絵具で汚れた机を掃除する度、そこに家庭を見た。長袖の服を不格好に捲り、あらゆる困難とは無縁な白く柔い肌を見せ、汚れを気にせず奔放に絵を描く子供たちの無邪気な姿は傷ついた心を癒した。
一時の幻想は幸福を与えた。
だがそれが消えたとき、彼は酷い苦痛に苛まれた。家庭を崩壊させた張本人であるのにもかかわらず、幸福を享受していたという事実が彼の罪悪感を煽った。そして、「もう二度と教え子たちに、佳奈美の幻影を見ない」と誓ったが、欲に溺れるのが常である人間は業から逃れられなかった。彼は絵画教室の仕事を辞められたはずなのにもかかわらず、休日の仕事に執着した。
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