第三話
赤茶けたトタンの倉庫(アトリエとして間借りしていた)、騒々しい教室、冷たい料理が置かれた家庭。これらを循環する彼の生活は、春が過ぎ、夏に入り、それが深まると一つの軌道に乗り出した。
彼は慣れたのである。仕事道具に見る火事の光景も、そこから引き出される痛みも、すべて一つのルーティンに組み入れることに成功したのだ。朝に顔を合わせるだけで、憎悪と償いを向けてくる二人の女性は生活の一部になった。味も温度も感じられない朝食も、音一つ立てずにそれを食べることも、すべて彼の生活になったのだ。
早朝なのにもかかわらず蒸し暑い玄関は、向かいの団地の影となっていて薄暗かった。そのためにか黴の臭いが強く感じられた。室伏はこのような玄関から「いってらっしゃい」と妻に見送られ、「いってきます」と循環の中に足を踏み出した。
夫婦の体裁を守るために行っていた『見送り』の日課は、いや、それだけではなく夫と過ごす一瞬一瞬は、彼女が守ろうとしていたものから彼女を乖離させた。
彼女は夫との距離を習慣にできなかったのだ。
夫婦の別離は時間の問題であった。それは親子の別離という点でも同様であった。
息子が家庭を顧みず、仕事に没頭する姿は母親の脳裏に自身の夫の姿を描き出した。彼女の夫は、家庭の安定のために建築現場で働き続けた。田舎の高校を卒業したのち、上京し、静子と出会い結婚。その後、一人息子である武夫を抱き上げると、二人の生活のために月月火水木金金で働いた。息子の「芸術大学に通いたい」という夢をかなえるため、武夫が中学一年生の頃からはより労働時間を延ばして働き続けた。その結果、息子が大学一年の頃に過労で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
静子にとってこの経験は憎悪でしかなかった。『家庭を守る』という大義名分のもと、家庭から目を逸らし、自己中心的な思想の中で働き続ける男の背中は一人で家庭のすべてを担っていた彼女の精神を追い込んだ象徴であった。もちろん、家計を管理していた彼女が、夫が毎日働いている理由を知らないわけがなかった。
しかし彼女も一人の女性であり、人間であった。
かつて夫に抱いていた憎悪は息子の背中に再現された。妻と母の感情に向き合おうとしない姿は、静子の心にあった憐れみを変質させた。愛娘を失った憐れな息子像は焼き爛れた。
自身の背中に向けられる視線の変質は、室伏の心を一層ルーティンに傾けた。空調のない倉庫で依頼された絵画を依頼主の要望通り描き、大学や絵画教室でカリキュラムに則した教育を実施した。家庭を守るという機械的な意思を全うするため、彼は汗を流し続けた。彼にとってそれは一種の快楽であった。自身で背負った責任のすべてを忘れられる時間は安寧をもたらした。
もっとも、それは痛みを伴う安らぎであった。
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