第5話 盤上の野良猫(ストレイキャット)

【時間:土曜日】

【記録者:小稲葵】

【場所:駅前の猫カフェ『猫まんま』】

【天気:あの日と同じ、鬱陶しい雨】


 暇な休日。

 学校に行かなくていい日は最高だ。

 小稲葵は駅の周辺をぶらついていた。

 アタシは、目的もなく一人で街の大通りや路地裏を歩き回るのが好きだ。もちろん、誰かと群れるのも好きだけど。

 ――ただしそれは、登校日に限る。


 葵の散歩の終着点は、駅前にある一軒の猫カフェだった。

 学校の近くにある店はあらかた行き尽くして飽きてしまった。この店の評価サイトのスコアは高くないが、新規開拓という好奇心と、電車を降りてすぐ猫を吸えるという利便性は、今日の計画に合致している。


 アタシは適当に予約を済ませると、氷が山盛りのアイスアメリカーノを注文した。脳天に響くような苦味を味わった後に、可愛すぎる猫たちに癒やされれば、その甘さは倍増するって寸法だ。


「あー、猫マジかわいー」


 床に寝そべる猫、フサフサの尻尾を優雅に揺らす猫、膝に乗って甘えてくる猫……。様々な猫の姿は、まるで宇宙に瞬く一等星(スター)のようだ。

 大抵の猫は、猫じゃらし一本で降伏させられる。性格がもっとひねくれた奴なら、煮干しや「おやつ」を献上すればイチコロだ。

 猫という生き物は、ただそこにいるだけで輝いている。人間は太陽に何かを返すことはできないが、少なくとも目の前の猫に報いることはできる。

 ……なんて言うと、まるで『情熱大陸』みたいに大袈裟か。ちょっとキモいな。アタシが言いたいのは、猫という生物自体が正義だってこと。


 ふと、キャットタワーの最深部に隠れている一匹のアメリカンショートヘアが、葵の注意を引いた。


「……なんなの、この猫?」


 猫じゃらしには反応して、目を爛々らんらんと輝かせているのに、アタシが手を伸ばすと、まるで感電したみたいに部屋の隅へ縮こまってしまう。

 愛されたいくせに、傷つくのが怖くて全身のとげを逆立てている。

 そのひねくれた態度は、まるで人間特有の性質(タチ)の悪さそのものだ。

 面倒くさい。

 だけど、だからこそ――たまらなくそそられる。


「申し訳ございません、お客様。その子は今日ちょっと体調が優れないというか、機嫌が悪いみたいで……他の猫と交換しましょうか?」

「ううん、平気。アタシがガツガツ行き過ぎただけだし」


 葵は店員の申し出を断り、毛糸玉や電子音の鳴るネズミなど、あらゆる武器を辛抱強く試した。しかし、目の前の「虎」は警戒心を解かず、暗がりで二本の牙を光らせている。店員はハラハラした様子で、その猫が客に危害を加えないか見守っている。

 まだダメか。なら、もっと卑劣な盤外戦術を使うしかない。

 人間は食物連鎖の頂点なんだよ! 人間様をナメんじゃねーぞ!


 葵はシュシュを取り出し、下ろしていた派手な染め髪を高い位置でポニーテールに結うと、両腕の袖をまくり上げた。


「お姉さん、ここは持ち込み禁止で――」

「……アタシ!」

「高級マグロ缶買います!!! いっちゃん高いやつ!!!」


 アタシはカウンターの上の、金ピカに輝くパッケージを指差した。

 ああ、本当に狡猾な猫だこと。

 葵は引きつった笑顔を浮かべながら、一週間の生活費の三分の二を占める現金を、断腸の思いで支払った。カウンターの向こうでは、店員が満面の笑みを浮かべている。


「毎度ありがとうございます!」


                  ◇


 店を出た葵は、大きく伸びをした。空は今にも泣き出しそうな、どんよりとした曇天のまま、小雨を降らせ続けている。


 猫カフェの猫は、金を払えば共にある時間を買える。子猫から育てるのも、それはそれで従順すぎて張り合いがない。そんなことは誰にでもできる。

 けれど、野良猫はそう簡単にはいかない。


 あの日、アタシは千春に本気でビビらされた。

 翌日、千春はいつも通り登校し、いつも通り誰にでも媚びるような嘘の笑顔を振り撒き、放課後のグループ活動に参加し、アタシと中身のない雑談に興じていた。

 二人を包む空気は、以前と同じようでいて微妙に違う。いや、ホラーに近い。

 盤面(ボード)の空気が変わったのだ。

 まるで、平穏に見える局面で、敵の『王(キング)』がいきなり定石外の危険な一手を指してきたような。それに対して、『女王(クイーン)』であるアタシは戸惑っている。


 ただ猫のように無条件で愛される。世間ではそれを良しとするかもしれないが、アタシの信条には反する。対価のない施しなんて気持ち悪い。

 ――あの一件があるまでは、そう思っていた。


 彼女が必要としていたのは、無条件のマグロ缶なんかじゃなかった。たぶん、もっと重くて、ドロドロしてて、面倒くさいナニカ。

 いや、まだ決めつけるのは早い。


「……マジで最悪の終盤戦(エンドゲーム)じゃん」


 だが、小稲葵は焦らない。

 十分な時間さえあれば、優秀な棋士(プレイヤー)は相手がボロを出すのを待ち続けられる。

 勝利は、最終的にアタシのものになるはずだ。


 帰り道、葵は千春の家がある通りに差し掛かった。

 雨脚が強くなってきた。無神経な車が水しぶきを上げ、自腹で買ったお気に入りのスカートを汚しそうになる。最悪。

 ……。

 ふと思い立って、LINEを開く。

 ピン留めされたトーク画面のアイコンは、死んだ魚のような目をした『比企谷八幡』の画像だ。

 千春の家の方へ足を向けようとして――葵は首を振り、素早くスマホのサイドボタンを押して画面を消した。

 まだ、その時(タイミング)じゃない。

 優秀な棋士は待つものだ。あの猫を追い詰める盤面が整うのは、時間の問題――。


 その時、街角のポストの前に人影を見つけた。

 小柄な身長。腰まである長い黒髪。「ロリ」という言葉がこれほど似合う人間も珍しい。発育の良い千春とは一つしか学年が違わないはずなのに、どう見ても中学生だ。

 千春が一度だけ話していたのを覚えている。家族旅行の写真で、カメラを嫌がっていつも背中を向けていた義理の妹。多分、あの子だ。

 何をしてるんだ? 手紙?

 これだけSNSが普及して、告白だってLINEで済ませるこの時代に、紙とペンでやり取りとか。レトロすぎて逆にエモい。

 ガラケー時代も知らないくせに古参ぶった感想を抱きつつ、葵が声をかけようと足を止めた瞬間、ポケットの中が振動した。


「はい……あ、どうも。X(旧Twitter)の絵師の件ですね。何か?」

 電話の相手は、イラスト制作の依頼主だった。

「面談? 今から? ……まぁ、駅の近くにいますし。急ですけど、いいですよ」


 予定変更だ。

 千春一人でさえ手一杯なのに、その妹との接触まで抱え込んだらパンクする。今は先送りだ。

 それに休日に稼ぐのは重要だ。もっと高い猫缶を買うためにも。


 葵は通話を切り、雨に濡れた前髪を整え直すと、駅の方へ戻ろうときびすを返した。

 その背後で、バシャッ、と水溜まりを踏み砕く音がした。


「小稲葵さん。お話があります」


 一歩、二歩。

 少女は探偵のように眼鏡のブリッジを指で押し上げ、アタシの退路を塞ぐように立ちはだかった。

 その瞳には、先輩に対する敬意も、カースト上位者(リア充)に対する畏怖もない。あるのは、凍りつくような冷静さだけ。

 まるで存在感のなかった『歩兵(ポーン)』が、楚河漢界そがかんかいを飛び越え、いきなり『女王(クイーン)』の喉元に食らいついてきたみたいだ。


「あの自己破滅願望のあるバカ姉と、そのクソみたいな盤面に巻き込まれた私たちについて……少し、時間をいただけますか?」

「チェックメイト」


 葵の耳に、そんな幻聴が聞こえた気がした。

 鼻先に、危険な香りが漂う。どうやら今日の休日は、泥沼の延長戦(サドンデス)にもつれ込むことになりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る