第4話 拝啓、存在しない貴女へ

【拝啓、結衣ゆいへ:】


【この文字を目にしている貴女へ。】


【もしかすると、この手紙は永遠に貴女の手元には届かないかもしれない。けれど、重い大気圏を抜け、燃え尽きずに届く隕石だってある。だから私も、頑張って貴女のもとへ辿り着きたいと思う。(こんな比喩、ちょっと変かな?)】


【昨日はすごい雨だった。私は高校の友達と一緒に遊びに行ったんだけど、家を出る時は傘を持っていたのに、帰る時には壊れちゃってて。「備えあれば憂いなし」って思ってたら、本当に雨が降っちゃうなんて、本当に残念。】


【あの子供用の傘のことを思い出したの。ベッドの下からやっとの思いで引っ張り出したんだけど、猫の模様はもうほとんど色褪せちゃってて、本当に残念。試しに開いて「くるくるくるくる」って、風車みたいに回してみようと思ったの! でも、さびが私に現実を突きつけた。過ぎ去ったものは、もう戻らないんだね。】


【でも大丈夫! 私たちはまだ懐かしむような歳じゃないし。貴女は私のことなんてすっかり忘れちゃってるかもしれないけど、私はまだ覚えてるよ! ブリキの缶、覚えてるでしょ? 一緒に公園の砂場に埋めて、十年後に掘り出そうって約束したやつ。まぁ、もうとっくに十年以上経っちゃってるし、缶なんて錆びて穴が開いてるかもしれない。でも、私にはわかるの。絶対に見つけられるって。】


【あーあ。手紙の中で愚痴をこぼすなんて迷惑だよね。でも、最近私ずっと×××されてて。得体の知れない×××感が私を×××て、誰かが×××……見透かされるのが怖い……そうなったら×××……】


【来週の土曜日の午後三時、×××駅で会いたいな。子供の頃のいつもの場所、村の入り口にある××時計塔のところで。私は確かめたいの。あの一緒に過ごした思い出が、私一人の妄想なんかじゃなかったってことを。】


                  ◇


 後半の文字は、修正テープで消されたり、上書きされたり、何度も書き直されていた。紙はどんどん薄くなり、インクの染みがにじんで破れかけ、もはや判読不能になっていた。


 結衣?

 姉の口から一度も聞いたことのない名前だ。姉の交友関係にも、家族のアルバムにも、食事中の雑談にさえ、一度たりとも登場したことのない名詞。


 おかしい。

 姉さんは子供の頃、東京の高層マンションに住んでいたはずじゃないか? 村の入り口の公園だの、砂場だの、ブリキの缶だの、そんなものはどこにもない。萌子は、そんな経験などなかったと一〇〇〇パーセント断言できる。


 ……。

 存在しない幼馴染、虚構のディテール……。

 これは単なる少女のポエム日記ではない。手紙の書式、慎重な修正跡、文字から滲み出る切迫感……それは「中二病」の範疇はんちゅうを超えている。


 もしこれが、演劇部の小道具の類だというなら、姉ならもっとありきたりな設定で適当に済ませるはずだ。こんな繊細な文章を書く度胸なんてない。

 私の脳裏に、今まで読んできた心理学書の知識が瞬時にフラッシュバックする。


 夢は現実への補償。

「虚言癖」、「妄想性障害」、「気分障害」……。


 姉さんは、病気なんじゃないだろうか。


 もし、この病気が明るみに出たら。

 母はどうなる? いつも家庭の笑顔を必死に繋ぎ止めようとしている母は、深夜のリビングでどれほど疲弊し、絶望的な表情を浮かべるだろうか? 継父はどう思う? ようやく築き上げられた、表面上は穏やかなこの家庭に影が落ち、最悪の場合、崩壊してしまうのではないか?


 家の中は低気圧で満たされ、母の溜息が湿ったカビのように部屋の隅々まで這い回るだろう。そして私――ただ必要な範囲で平穏な生活を維持したいだけの私――は、不必要なトラブルと感情の渦に巻き込まれることになる。


「本当に……面倒くさい」


 私は低く呟き、眉間みけんしわを寄せた。

 もちろん、考えすぎという可能性もある。

 だが、たとえ間違っていたとしても、後で適当な理由をつけて誤魔化せばいい。

 動機が合理的で、目的が善意に基づくものなら、やる価値はある。


 私はスマホでその下書きを撮影した。そして自分の部屋に戻る。


三森みもり結衣ゆい


 それは一つの名前。そして、姉の妄想の中にしかいない「救世主」。

 私はその名前を三秒間見つめ、自分のスマホを手に取った。


「……しょうがないな」


 今夜、二度目の溜息。

 だが、明日やるべきことはもう決まった。

 その一、小稲葵のスケジュールを必ず確認すること。あのトップカーストのリア充、姉の社交界における最重要人物の動向を。

 その二……。


 私は布団に潜り込み、メモ帳アプリに作成予定の草稿を打ち込んだ。


【千春へ:】

【貴女の想い、確かに受け取ったよ。】



 ***



 同時刻、夜。

 冷たい雨が降り注ぐ中、千春は傘を差し、音もなく佇む郵便ポストへ手紙を投函した。

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