第3話 花乃萌子は波風を立てない

姉さん――花乃はなの千春ちはる――の様子が、今日はおかしい。


 花乃はなの萌子もえこは、残業中の継父のための夕食を保温弁当箱に詰め、スーパーのビニール袋で口を結ぶと、ダイニングテーブルの隅に置いた。

 時計の針が、チクタクと規則正しい音を刻んでいる。


「千春、今日は何か面白いことあった? 学校のことでも、外のことでもいいから、お母さんに話してよ」


 これが我が家の夕食時の恒例行事だ。継父と母の間で取り決められたルールらしい。

 ピーマンを食べるのと同じで、食べられなくはないが、好きとは言えない代物だ。「一日の生活」なんてものは、あるがままに過ぎ去るものであり、口に出したところで経験した事実が変わるわけではない。だから私は、この報告会には反対だ。

 だが、家族関係の円満な維持という観点から見れば、その意義は大きい。


「あ、うん。今日はすっごく楽しかったよ! 特にカラオケが……小稲こいねあおいちゃんと遊んで……今日は雨ですっごく滑りやすかったから……みんな転ばないように気をつけなきゃね。私みたいな非力な女子じゃ、背負ってあげられないし……」


 千春は楽しげな笑顔を浮かべて喋っている。あぁ、本当に耳障りだ。ノイズ自体は、長い髪の下に隠したイヤホンで遮断できるが、食事中にアイマスクをするわけにはいかないのが痛い。

 報告会の第一ラウンド、特にすることのない萌子は、頬杖をつきながら姉の一挙手一投足を観察していた。


 千春はテーブルの上で、左手をぎこちなく添えて座っている。いつもなら茶碗を持つのに、今日は置いたままだ。もう一方の手で箸を持ち、平面からご飯を掬い上げて口に運んでいる。

 そして、空いている方の手は、しきりにスカートの裾を弄り回していた。


 今日は萌子が片付け当番の日だ。

 萌子は、二階へ上がろうとする姉を呼び止めた。


「今日は湿気がすごいですね」

 彼女は千春の長袖を指差した。

「長袖だと、不快じゃないですか?」

「そんなことないよ。雨上がりで、むしろちょっと肌寒いくらいだし。梅雨って本当に嫌だよねぇ。一昨日洗ったお気に入りの服も、全然乾かなくて……」

「そうですか。今日は姉さん、あまり左手を使っていませんでしたね」


 萌子は淡々と姉から視線を外した。千春の笑顔がわずかに引きつる。彼女はそれ以上話を続けようとはせず、そそくさと階段へ足を向けた。


「今日、帰ってきた時に萌子ちゃんに挨拶するの忘れてたかな? ごめんね」

「そんなことはどうでもいいです」

「……え?」

「三階の物入れに救急箱を置いておきました。消毒液と綿棒、あと絆創膏が入ってます。使ってください」

「えっ? ちょっ、待っ――」


 私は姉を振り返ることなく、自分が正しいことをしたと確信しながらドアを閉めた。

 私の勝ちだ。


 長袖。スカートの裾。不自然な食事の姿勢。

 似たような状況が半年前にもあった。あの時、姉の膝には新しい擦り傷があったのに、彼女は頑なに「家で机の角にぶつけた」と言い張った。その後、両親の前では長袖のルームウェアに着替えていたのだ。


 それから三時間が経過し、隣から「カチャリ」という音が聞こえた。

 廊下には暖色系の明かりが灯り、私の顔を照らしている。さっきリビングから聞こえてきた姉のドアを開ける音や、母の気遣うような声は、次第に遠ざかっていった。

 姉はどうやら何かを買いに出かけたらしい。詳しいことは知らないが。


 萌子は無意識のうちに三階への階段を見上げた。

 あの物入れの扉は、さっき私が見た時と同じように、隙間なく閉ざされている。

 取っ手についた埃を指で拭ってみる。

 ……動かした形跡はない。


「本当に、どうしようもない人」


 萌子は溜息をついた。それは姉を心配してのことではない。純粋に、このような「自己管理能力の欠如した」生物に対する嫌悪感からだ。

 彼女は三階へ上がり、未開封の消毒綿棒と絆創膏を取り出した。それを口実にして、姉の部屋のドアノブを回す。

 鍵は掛かっていない。

 プライバシーの侵害かもしれないが、少なくともこれらの物を彼女の部屋に置いて、自覚を促すべきだと思ったのだ。

 さもないと、姉が傷を悪化させて熱でも出せば、母が過剰に心配し、家の中が溜息で構築された低気圧に支配されてしまう。そうなれば、私は宿題をする気力すら失い、玄関先の枯れ木より先に干からびて死んでしまうだろう。


 スイッチを押すと、視界が一気に明るくなった。

 部屋は広くないが、整頓されている。本棚には漫画や小説、コレクションが詰め込まれ、窓際の机にはノートパソコンが置かれている。部屋のレイアウトをなぞれば、棚と机が直角を構成し、その角の二等分線上に、オタクである姉のベッドが配置されている。それらがこの十平米ほどの空間を占拠していた。


 萌子の視線が本棚を薙いだ。よくある漫画や小説に混じって、一列だけ、背表紙の高さ順に几帳面に並べられ、透明なブックカバーで保護された本がある。

 それは、ライトノベル作家『森野もりのたまき』の全集だ。萌子は基本的に純文学や心理学書しか読まないが、この作家のことは知っている。


 『雨と嘘の日曜日』。


 裏表紙には著者の若い頃の不鮮明な写真――黒髪の少女の横顔が載っている。

 それは高知能犯罪を描いた小説だった。ある天才少女が、人間の記憶の不確かさと一語一句の誘導を利用して、「存在しない誘拐事件」をでっち上げる物語。

 人々を驚愕させた真相は、彼女が自分自身を誘拐し、周囲に「誘拐された」と思い込ませていたことだった。その動機は、愛する人が自分を気にかけてくれるか試すため、そして自分を無視する人々への罰だった。

 この本は漫画化、ドラマ化、さらには映画化までされ、大成功を収めた。萌子も映画を見てからというもの、その世界観にのめり込んだ。『雨と嘘の日曜日』は、彼女が全てのメディアミックスを追いかけた数少ない作品だ。

 その後、この作家は沈黙し、ペンネームを変えたという噂もある。

 名声を得られたはずなのに、こんな形であっさりと退場するなんて、本当にもったいない。


 姉はいまだにこれらの古本を大切にしている。それはいい。だが、姉だけがこの名前を常に口にし、誰彼構わず狂ったように布教したところで、再ブレイクなどするはずもないのだ。

 純粋に彼女の映画が好きな自分と、森野環の全てが好きで死にそうな姉とは違う。萌子は、姉よりも高い芸術的次元に立っていると確信していた。


 母が二年前に再婚してから、私には一歳年上の姉ができた。母は新しいパートナーを得て、発電所勤務の激務の中で孤独死することもなくなり、万々歳というわけだ。

 必要な人とだけ、必要な関係を保てばいい。地下鉄に揺られて必死に働く母と、母に関わる人以外、私は誰のことも気にしていない。


 優れた文学作品には、十分に豊かで興味深い人間関係が描かれている。それらを読み込めば、現実の人間がどう動くかはおおよそ予測がつき、次第に現実への興味を失っていく。

 経験則というルールに従わず、あまりに真摯すぎれば、本当の自分は狼の爪の前の羊となり、なすがままに貪り食われるだけだ――狼を演じているのは人間なのだから。そして羊は舞台劇の一員ですらなく、終演後に役者たちに振る舞われる打ち上げの串焼き肉に過ぎない。

 そうなれば、少女漫画のヒロインや、異世界アニメのチート主人公といった、商品として切り売りされる幻想に逃げ込むのも避けられないだろう。

 幻想を必要とする人間もいるのかもしれない。だが、萌子は萌子のルールに従って生きていけばいい。八方美人で、口先だけの姉は、私にとって重要な人間ではない。


 萌子は机の前に行き、広げられたノートを見下ろした。

 開かれたページは白紙だ。左側には、紙をむしり取ったギザギザの痕跡が残り、背表紙の糊付け部分はスカスカになっている。このノートは既に、見るも無惨に引き裂かれていた。


 姉さんがこんなことを? 紙の無駄遣いだ。


 萌子は何気なく、ゴミ箱からくしゃくしゃに丸められた数枚の紙屑を拾い上げた。

 本来なら見たくはなかった。中身のない女子高生のプライバシーを覗き見ることになど、興味はない。

 だが、そこには私が予想していた「今日のカラオケ楽しかったー」といった戯言は書かれていなかった。


 これは……?

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