第2話 クラッシュ

小稲葵の予言通り、他のメンバーは天気を理由に断り、結局千春と小稲葵の二人きりになった。

 これは『マニュアル』に載っていない事態だ。正解がない以上、即興で演じるしかない。だが受験勉強というのは、出題者の意図を読んで行うものだ。

 誘いは受けたものの、彼女とどう会話していいかわからない。喉から出る声が自分のものじゃないみたいだ。


 ただ、笑顔を作ることに関しては心配無用だった。プログラム通り、脳を経由せずとも頬骨の筋肉を牽引するだけで処理は完了する。


 談笑しながらカラオケ店に到着する。

 事前にまとめておいた『対策マニュアル』に従い、小稲葵の好みに合いそうな曲を選び、システムを稼働させる。

 だが、千春が送信ボタンを押す前に、小稲葵が一足早く動いた。


 イントロが流れる。

 騒々しい電子音、極めて速いBPM、画面を疾走するポストモダン風の歌詞。

 ――『脳漿のうしょう炸裂さくれつガール』。

 続いて『ネコミミスイッチ』。

 さらにマイナーな萌え系ボカロ曲が続く。


 どれも少し年代物で、かつディープなオタクしか好まないような曲ばかりだ。そして陰キャの多くは、そういう曲を好む。

 彼女は本当にこういう曲が好きなのか? それとも……私の偽装なんて、とっくに剥がされていた?


「あ、やっぱ! 千春こういうの好きだと思ってた!」


 マイクを握った小稲葵が、手柄を誇るような得意げな笑顔で、距離感ゼロで体を寄せてくる。太ももの外側が千春のスカートの裾に触れるほど近い。


「あたし、前に千春のプレイリストこっそり見たことあってさ。今日一緒に歌いたくて、めっちゃ練習してきたんだよ! ほらほら、一緒に歌お!」

「……え?」


 千春は喉に水を含んだ綿を詰め込まれたような感覚に陥った。

 ギャルゲーならよくある展開だ。だが、ここはゲームの中じゃない。

 私の台本シナリオでは、「聞き手」である私が、「主役」である彼女に合わせるはずだった。それが好感度という対価を得るための労働だ。

 なのに今、彼女が私に合わせてきている?

 カーストの頂点にいるリア充が、私みたいな陰キャのために、こんな奇妙な曲を練習してきたとでも言うの?


「……ありがとう」


 千春は機械的にマイクを手に取った。

 本来なら「私が一方的に尽くし、相手に借りを覚えさせる」という気楽な関係であるはずが、今は自分が「尽くされる」側になってしまった。

 その好意が、あまりに重い。あまりに粘りつくようだ。

 まるで質の悪い準チョコレートを無理やり口に押し込まれたみたいだ。甘いことは甘いのに、口の中にいつまでも溶け残る油膜のような不快感。吐き気がする。


 今回のミッションは失敗フェイルだ。

 彼女の前で完全に敗北し、陰キャ特有の無様さを晒してしまった。



 ***



 ネオンに照らされた夜空に、雨の糸がはっきりと見えている。

 傘の柄からは重い反発力が伝わってくる。錆びついた歯車のように、どうやっても開かない。


「千春の傘、壊れちゃった?」


 カチャカチャ。

 葵の腕の筋肉が震えているのが見えた。彼女は本当に辛抱強く、しかし結局傘を開くことはできなかった。その試行錯誤の時間が、永遠のように長く感じられた。


「雨、強くなってきたし、傘ないとヤバいよね……よかったらアタシが送ってくよ」


 彼女はニカっと口を開け、あのトレードマークである眩しい笑顔を見せ、手を差し伸べてきた。


「今日、千春の役に立てて、マジで嬉しかったし。よかったぁ……」


 役? なんの?


【警告:感情解析失敗。解析システム過熱。】


 彼女は私をからかおうとしている。絶対に。

 負けてたまるか。

 カチャカチャ。

 何かが折れる音がした。

 開かない傘の悲鳴だ。葵はまだ私の傘を押し上げようとしている。たぶん、傘はもう壊れている。

 心の中に得体の知れない炎が燃え上がった。彼女に対してではない。この世界のすべての理不尽な事象に対して、無差別に。


「傘、貸して」

「ん? なになに?」


 葵が反応するより早く、千春はその折れた傘を奪い取った。骨が傘布を突き破り、鋭利な先端が私の左腕を掠め、血が滲み出る。

 傘は雨水枡うすいますの蓋の上に激しく叩きつけられた。それはグロテスクな形に変わり果て、肋骨を折られた死体のように、無惨な骨組みを雨の中に晒していた。


「こんなの要らない」

「こういうの、好きじゃない」


 壊された! 壊された! 壊された! 完全に壊された! 得体の知れないナニカに壊された! 嫌だ嫌だ! 嫌だ! 壊れちゃう! 視界いっぱいに赤い警告ウィンドウがポップアップしている! 画面が見えない!


 千春の剣幕に、小稲葵は数歩後ずさりした。

 どうやら彼女も、こんな私はお気に召さないらしい。私の全てを包容できるわけじゃなかったんだ。最低だ。

 なのに、彼女はまた近づいてくる。


「千春――」


 千春は振り返る勇気がなかった。

 幼い頃、両親に見送られて参加した小学校の運動会。あの期待、誇り、緊張、喜び、様々な感情が入り混じった視線を受けて、私は胸を張り、トラックのゴールに向かって走っていたはずだった。

 なのに、あの日走っていた私は、いつから友人から、学校から、社会から逃げ出し、心を閉ざした人間になってしまったんだろう?


 わからない。


 千春は雨の向こう側へと駆け出した。

 「何も支払わなくても受け入れられる」なんて都合のいいことは、現実には親以外してくれるはずがない。小稲葵だってそうだ。

 千春はスマホを取り出し、新しい連絡先を作成した。


【メモ帳/三森みもり結衣ゆい


 私は、架空の「彼女」について、最初の一行を書き記した。

 事態がもはや修復不可能不可逆なら、いっそ二倍速のスイッチを押して、下り坂のジェットコースターに乗ってしまえばいい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る