2 獣との対峙

 十五分ほど走ると、住宅街の一角にある古いアパートが見えてきた。築三十年は経っているだろう木造二階建ての建物で、こんな天気の良い日でも薄汚れた印象を隠せない。外壁のペンキは所々、がれ落ち、建物全体が時間の重みに疲れ果てているかのようだった。周囲の新しいマンションとは明らかに浮いている。取り残された昭和の遺物いぶつのようなたたずまい。

 アパートの前には、四十代半ばくらいの男性が腕組みをして立っていた。男性は俺たちの乗ったパトカーを見つけると、やけに大げさに手を振った。その動作には、どこか芝居がかった不自然さ。まるで「困っている住民」を演じているかのような。


 俺は車から降りて男性に近づいた。春野も後に続く。男性は、落ち着いた物腰で丁寧に会釈をした。

「おお、来てくれましたか。お忙しい中、ありがとうございます。」

 男は意外にも身なりが整っており、話し方も理性的だ。もしかしたら、今日は当たりかもしれない。事はスムーズに進みそうだ。

「通報された方ですね。どのような状況でしょうか」

「私、ここの二階に住む田村と申します」

 田村は手帳を取り出し、几帳面きちょうめんに記録された文字を見ながら話し始めた。視界に少しだけ内容が入ったが、ビッシリと敷き詰められた文字列から判断するに、日付や時刻、騒音の内容が細かく記されているようだった。

隣室りんしつの方の生活音についてご相談したく、通報させていただきました。具体的には、夜遅くのシャワー使用が連日続いており、近隣住民として困惑しております」

 理路整然りろせいぜんとした話し方、事実を整理して説明する姿勢。俺は内心で安堵した。久しぶりにまともな住民だ。先週は「宇宙人がSNSで盗聴してくる」と主張する男の対応に三時間かかった。それに比べれば、この男とは建設的な会話ができそうだ。

「騒音の問題ですね。詳しくお聞かせください」

「はい。毎晩午後九時から九時半頃にかけて、シャワーの使用音が聞こえます。水音だけでなく、脱衣場のドアを開閉する音、洗面台の蛇口を操作する音なども含まれます」

 田村は手帳のページをめくりながら、まるで報告書を読み上げるように話した。俺は内心で首をかしげた。午後九時半にシャワーって、別に遅くないだろ。俺だって大体その時間に風呂入ってるぞ。むしろ一般的な入浴時間じゃないのか。でも田村の話しぶりはしっかりとしているため、つい相槌を打ってしまう。

「私なりに調べてみたのですが、一般的な集合住宅では夜八時以降の入浴は控えめにするのが良識とされています。管理会社の規約にも『近隣住民への配慮』という文言があります」

 夜八時以降? それじゃあ、仕事帰りのサラリーマンは風呂に入るなってことか?俺は心の中でツッコミを入れたが、口には出さなかった。蜂の巣をつつくようなものだ、成り行きに任せるのが吉。

「なるほど、それで相手の方とはお話しされましたか?」

「もちろんです。まずは書面で丁寧にお願いしました」

 田村は別のページを開いて見せる。確かに几帳面な字で、礼儀正しい文面が書かれている。いや、礼儀正しいというより、まるでビジネス文書のような堅苦しさだ。

「しかし先方は『法的に問題ない』とのご返答で、改善していただけませんでした。そこで管理会社にも相談しましたが、『住民間で解決してください』とのことです」

 先方って、まるでビジネスの交渉みたいだな。俺は心の中で鼻で笑った。顔には出してはならない。この手の輩はなぜか悪意には敏感なのだ。

「それで警察にご相談いただいたと」

「ええ、最後の手段として。もちろん、これが刑事事件だとは思っておりません。ただ、公的機関としてのご見解をいただければと思いまして」

 田村は謙虚な姿勢を崩さない。順序立てて対処し、理性的に話す。こういう住民なら、協力したくなる。まあ、ちょっと変なやつだが、これまで対応してきた住民トラブルとは雲泥の差だ。

「分かりました。ただ、田村さんも法的には午後九時のシャワー使用は問題ないという認識はお持ちですよね」

「法的には、確かにそうでしょうね」

 田村の表情がかすかに曇った。この男の声に不自然な余韻。何かが引っかかる。

「しかし、法律がすべてではないと思うのです。社会には明文化されていないルールがあります。良識ある大人として、他者への配慮は当然のことではないでしょうか」

 言葉は理性的だが、声のトーンに微妙な硬さが混じり始めた。さっきまでの落ち着いた物腰が、ほんの少しだけ剥がれかけているような印象を受ける。

「確かにそうですが、価値観は人それぞれの部分もありましてですね」

「価値観、ですか」

 田村の顔に、かすかに困惑の色が浮かんだ。まるで、自分の正しさを疑われることに慣れていないような表情だった。

「でも、これは価値観の問題でしょうか。隣人への思いやりは、人間として基本的なことだと思うのですが」

 嫌な予感がする。話し方は丁寧だが、どこか相手の意見を受け入れる余地がない感じ。まるで、すでに結論が決まっていて、俺たちはそれを追認するだけの存在、そんな印象を受けた。どうすっかな、このあとの話し方。間違えるととんでもないことになるかもしれない。俺があれこれ考えている最中、それまで黙ってメモを取っていた春野が、ふと顔を上げた。

「あ、そうそう田村さん。さっき署内の廊下で職員の人たちが話してるの聞いちゃったんですけど。田村さんが夜中にバイクのエンジンかけてるって苦情も来てるらしいですよ?」

 停止する空気、頭の中で巡る音声。お前何を言ってるんだ? 盗み聞きした内容を本人の前で言うなんて。しかも署内の連中の噂話。せっかく俺が適当に仕事を終わらせようと頑張っていたのに、そんな無神経なこと言ったら怒らせるだろ。俺は田村の表情を伺いながら、フォローの言葉を必死に考え始めた。「コイツの言葉は気にしないでください」とかか? いや、それじゃあ逆に失礼か?

「ああ、それですね」

田村は即座に答えた。俺の予想とは反し、表情に動揺は見られない。

「それは仕事の都合でして、どうしても必要な場合のみです。私としても近隣の皆様にご迷惑をおかけしたくないのですが、生活のためにはやむを得ません」

「でも相手の方も、シャワーは生活に必要なことじゃないんで——」

「全く違います」田村の声が急に断定的になった。さっきまでの丁寧な物腰が、一瞬で消えた。

「私の場合は生活に必須であり、相手は単なる時間の問題です。シャワーは時間をずらせばいいだけの話でしょう」

 この瞬間、俺は確信を得た。自分の行動は正当化し、相手の行動は批判する。結局この人も「自分だけが正しい」タイプか。散々見てきたパターンだ。まともそうなつらをしていたから騙された。これはこのまま戦争になる。俺の勘は当たる。

「田村さん、ちょっと質問があるんですけど」

 春野の声は相変わらず無邪気だった。田村は春野を見て、わずかに表情を和らげた。

「はい、何でしょうか」

「田村さんは『隣人への思いやりは当然』っておっしゃいましたよね?」

「ええ、そうです」

「でも、田村さんもバイクの音で隣人に迷惑をかけているんですよね? なんで田村さんは思いやりを示さなくていいんですか?」

 田村の表情が固まった。春野は首をかしげながら、純粋な疑問として続ける。

「あと、『時間をずらせばいいだけ』って言いましたけど、田村さんもバイクの時間をずらせばいいんじゃないですか? もし出来なくても何かしらの配慮ってしてるんですか? 例えばで良いので、どんな配慮をしてるかとか教えていただきたいです!」

「それは……それは事情が違うんです」田村の声に動揺が現れた。額に薄く汗が浮かんでいる。

「私の場合は仕事で仕方がないんです。相手は自分の都合でしょう」

「でも、相手の人も仕事で遅く帰ってくるからシャワーが遅いのかもしれませんよね? 隣人の方も仕事で大変なんで、許してあげれば良いんじゃないんですか?」

 おい春野、そこまで言うか。俺は内心で冷や汗をかく。この状況、どう収拾すればいいんだ。春野の疑問は容赦ない。これを言ったら流石に怒らせるかも、なんて考えがこいつにはない。

「そ、それは推測でしょう。確証はありません」

「田村さんの言う、隣人のシャワー云々うんぬんも推測ですよね? なんで田村さんだけは許されるんですか?」

 限界を超えたのだろう、田村の表情が一変した。怒りが臨界点を突破したようで、それまでの理性的な仮面が崩れ落ちた。底に隠れていた狂気──いや、狂気というより執念のようなものが露わになった。

「何を言っているんですか! 私と相手は全く違います!」

 声が急に大きくなった。通りかかった住民が何事かと振り返る。やばい、完全にキレている。俺は春野に目配せしようとしたが、こいつは相変わらずメモを取り続けている。田村の顔がみるみると紅潮し始めた。パンパンにふくれた赤いつらは、まさに赤鬼だ。ああ、妖怪って実在するんだな。俺の給料で、妖怪退治をする義務があるらしい。誰か、公務員の給料を見直してくれないか? この仕事は桃太郎にでも頼んでくれ。危険手当をもらっても、こんなの相手にしたくない。

「私はこれまでずっと、周囲のことを考えて生活してきました! 私がどれだけ気を遣っているか、あなた方には分からないでしょう!」

 田村は春野を指差した。手が震えている。呼吸が荒くなり、目が血走っている。春野は全く気にする様子もなく、田村が話している内容を必死にメモしている。

「私はいつも正しいことをしています! 常識的に行動しています! それなのに、なぜ私だけが我慢しなければならないんですか!私の権利はどこにあるんですか!」

 流石の春野もこのタイミングで何か様子がおかしいことに気がついたようだ。残念だがもう遅い。人間爆撃機が頭上に来たのだ。お前も一緒に死んでもらう。そもそも敵を起動させたのはお前だ。腹をくくれ、若者よ。

「私だって平和に生活する権利があります! なぜ私だけが損をしなければならないんですか! これは絶対におかしい! 間違っています!」

 田村の目は完全に血走っていた。理性的だった男は跡形もなく消え去り、そこには自分の正当性に取り憑かれた何かがいた。ペルソナを失い、むき出しになった執念──人間の形をした、理解不能な。

「私はずっと我慢してきたんです! 私はいつも譲歩してきました! でも相手は何も譲歩しない! これは不公平です! 私の方が正しいのに!」

 この化け物の、最初の理知的な印象は完全に幻想だった。あれはただの演技だったのか? 表面的な理性の下に、これほどの本性が潜んでいるとは。

「私の言っていることは間違っていますか! 私は常識的なことを言っているだけです! なぜ誰も私の正しさを理解してくれないんですか!」

 田村の叫び声は、午後の住宅街に不気味に響いていた。周囲の住民たちがカーテンの隙間から、こちらを覗いているのが見えた。


 田村との「話し合い」は結局一時間以上もかかった。最終的に俺たちが田村の隣人を訪ね、苦情を伝えた上で「できる範囲で配慮をお願いします」と頼み込んだ。隣人は困惑しながらも了承してくれたが、田村は最後まで「正義が歪められた」と不満を漏らしていた。

 俺が妖怪退治を終え、パトカーに戻る途中、後ろをとぼとぼと着いてきた春野が不思議そうに言った。

「北島さん、田村さんって最初すごくまともそうでしたよね? なんで急に変わっちゃったんでしょう?」

 俺は答えに困った。そんなもの俺だって分からない。ヤツは変わったのではなく、最初から狂っていて、俺たちが気づかなかっただけなのかもしれない。もっとも、春野が余計な正論をぶつけなければ、田村の狂気は表に出てこなかった可能性もある。あの几帳面な手帳、理路整然とした話し方。全部、自分が正しいことを証明するための道具だったんだろう。狂っている奴ほど、自分が正常だと信じているものだ。


 へとへとになりながらパトカーを運転し、署内に戻った時には定時になっていた。俺は春野に帰宅するように告げ、先ほどの報告書をまとめることにした。部下を先に帰宅させようとしたのは、俺が労務管理に熱心だからではない。こればかりは一人で仕事をしたかっただけだ。書類を書いている時にまで、ピーポ君雑談に付き合わされるのはごめんだ。

「お疲れ様でした!」

 春野は相変わらず、元気よく手を振って帰っていく。デスクの上にはピーポ君のぬいぐるみが、今度はきちんと座らせてある。明日の朝には何故かまた、床に落ちているのだろう。

 春野が帰り、事務室は急に静かになった。窓の外はまだ薄明るい。四月だ、日が伸びた。蛍光灯が疲れたようにジーと鳴いている。俺と同じくらい古びた音だ。四十五歳にもなると、実は腰や膝からジーと音がなるのだ。一緒に残業している諸君にだけは内緒で教える大人の秘密だ。くだらないジョーク、決まった。キャバクラなら爆笑必至、間違いなし。

 そうして誰もいない署内の、誰も気にしない部屋で、誰にも気にされない俺はパソコンに向かって報告書を打ち始めた。今日の件をどう表現するか。「住民の精神状態に異常が見られる」とは書けない。「住民間のトラブルを仲裁により解決」という当たり障りのない文面でまとめるしかないだろう。キーボードを叩きながら、俺はため息をついた。

「はぁ……早く定年迎えねぇかな」

 春野には疲れることばかりだが、俺も過去のやらかしでこんなところに左遷された身だ。ピーポ君愛好家と左遷組、春野の言葉を借りるなら「スーパーエリートコンビ」らしい。笑えない冗談だ。ダラダラと書類をまとめ、俺は午後七時ごろに帰路についた。

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