善意による悪意

ダンチ

1部

1 我ら住民問題対応班

 ピーポ君が泣いている。

 神山かみやま警察署、地域安全課の事務室。春野はるの圭介けいすけ巡査のデスクの端から、高さ十五センチほどのぬいぐるみが今にも床に落ちそうになっている。持ち主である春野巡査は、この人形を大切にしていると豪語しながら、デスクの端っこに放置しているのだ。

 ピーポ君は本来は営業スマイルを浮かべている警視庁のマスコットキャラクターだが、こんな粗雑そざつな扱いを受けていては、その笑顔も涙を流しているようにしか見えない。そして、その持ち主は今日も元気に机に向かい、スマートフォンを操作し、警視庁公式アカウントに喧嘩けんかを売っていた。


『@MPD_koho ピーポ君の目、左右で大きさ違いません? 整形外科紹介しましょうか? #ピーポ君愛#公僕としての自覚を持て』


 俺の新しい部下、春野巡査の指先が軽やかにタップ音を刻む。こいつにとってはこの行為が愛情表現のつもり、らしい。完全に狂っている。

 今年で四十五歳になった俺、警部補の北島きたじま健太けんたは、自分のデスクで大した量のない書類たちを見つめながら、その光景を視界の端にとらえていた。時刻は午前九時二十分。今日一日は始まったばかりで、四月の日差しが妙に眩しい。この事務室の窓から見える鮮やかな春の景色とやらも、俺の憂鬱な気分には全く合わない。スマートフォンをいじるのに夢中な春野がかもし出す独特の狂気と、俺自身が抱える得体の知れない疲労感が混ざり合って。

「北島さん、見てください! ピーポ君の新グッズが出るんですよ!」

 思考を遮る声に、俺は顔を上げた。春野が嬉しそうにスマートフォンの画面をこちらに向けている。画面には消防士の格好をしたピーポ君が写っていたが、確かにいつものピーポ君よりも表情が険しく見える。

「今度は消防庁とのコラボバージョンなんです!でも、なんか顔が怖くて。いつものピーポ君の方が優しい顔してますよね」

「知らん。仕事しろ」

 会話を続けたくない俺はすぐに書類に目を落としながら答えた。齢二十五にもなる青年がピーポ君という、警視庁のマスコットに夢中なのはどうかと思う。だが、百七十センチの細身に童顔。春野が言うと妙に違和感がない。それはそれで問題な気もするが。そういうのは幼年期に卒業するものではないのか? いや、多様性と言われる時代だ。年齢が離れている部下の考えを俺が理解してあげなくてはいけない、のかもしれない。

「でも北島さん、これ見てくださいよ。眉毛の角度が三度くらい上がってません? これじゃあ子供が泣いちゃいます」

「子供の心配より、俺の心配をしてくれ。ピーポ君だかホーヒ君だなんだ、毎日聞いてるとノイローゼになりそうだ」

 春野は首をかしげた。相変わらず俺の言葉を理解していないようだ。この青年は神山警察署に配属して今年で二年になるが、自分の言動がどれほど周囲を困惑させているかを理解する気配がない。交番勤務時代は「余計な仕事を作りすぎる」という理由で地域課に回され、そこでも同様の問題を起こして最終的にこの地域安全課 住民問題対応班 ——通称「じゅうもんはん」に流れ着いた。

 ここは神山警察署の片隅にある窓際部署で、俺と春野、この二人だけの小さな島だった。百八十五センチの木偶でくの坊と、ピーポ君に恋する青年。じゅうもんはんなんてカッコいいあだ名がついているが、実際の業務はそうではない。交番で手に負えない住民トラブル、こじれた近隣問題、要注意人物の定期確認。要するに、現場が「署に回してください」と泣きついてくる面倒事の処理係だ。署内ではじゅうもんはんなんて言葉は窓際族をからかうための言葉に過ぎない。

 そんな俺はこの窓際部署に流れ着いて、もう三年になる。四十代半ばで警部補という肩書きは「順調なキャリア」とは程遠いが、それでも俺はこの場所が嫌いではなかった。少なくとも、誰も、死なない。


「そういえば北島さん、最近ネットで変な話が流行ってるの知ってます?」

 春野がスマートフォンをスクロールしながら呟いた。その手元では、相変わらずピーポ君のぬいぐるみが机の端で重力と戦っている。愛してると公言している相手に整形手術を勧める神経が俺には理解できない。そしてその人形は今も床に落ちそうになっているじゃないか。これが現代の愛の形なのか?

「変な話って何だよ」

 俺は書類に目を落としたまま答えた。敏腕びんわん警察官である俺には、こういう与太話に付き合っている暇などないはずだ。——はずなのだが、いかんせん暇なのだ。時間を潰すにはちょうど良いか。そんな俺の態度など、春野は意に介さない。

「家族の日常を投稿してる人のアカウントなんですけど」

 春野がスマートフォンの画面を見つめたまま続ける。

「『娘が今日も折り紙で鶴を作った。上手になったなあ。』って、すごく普通の内容で」

「ふーん、それで?」

「返信欄がすごいんです。『涙が止まらない』『家族に会いたくなった』『なんでこんなに感動するんだろう』って」

 春野の声に熱がこもっている。俺は真剣に聞くつもりもないので、先程入れたばかりのコーヒーを飲もうと、カップに手を伸ばした。インスタントの、この、もったりとした喉越し。本当はドリップしたいところだが、面倒くさい。で、何だったか。折り紙の鶴。娘が作った。上手になった。感動した人々。どこに変な要素があるんだ? 親馬鹿な投稿に心温まる人がいる、それだけの話ではないのか。むしろ平和で微笑ましい光景に思えるのだが。

「よくある話だろ。それだけだと変な要素がない」

「普通の折り紙の話なのに、みんな泣いてるんですよ?」

 確かにそう言われるとそうだ。しかし、つまらない投稿を「感動した!」と小泉元総理みたいに言い放って煽り散らす遊びなのかもしれない。

 今の若い子にこのネタは通じるか? いや、春野は二十五歳だ。ギリギリ知らない世代か。俺がそんな無駄な思案しあんをしていると春野が画面をタップしながら続ける。

「で、気になって次の日にその投稿をもう一度見に行ったら、アカウント自体が消えてるんですよ。『このアカウントは存在しません』って」

「削除したんじゃないのか」

 俺の答えは素っ気ない。正直、こんな話にどれほどの意味があるのか分からない。しかし春野は首を振った。

「でも翌日にまた別のアカウントで、同じような投稿が現れるんです。『妻の作った卵焼きが美味しかった。』『娘が元気に学校に行った。』とか」

 ちらりと視線を外すと、窓の外は眩しいほどの春の陽射し。一方、この事務室はひんやりとして静かで、蛍光灯の光だけが白く天井から降り注ぎ、春野の声だけが室内に響く。俺はペンを指先で回しながら、ネットの都市伝説とやらを適当に聞き流していた。四十五歳と二十五歳の男が二人、折り紙の鶴について語り合う水曜の午前。なんとも言い難い光景だ。

「偶然だろ」

「なぜかリプライの反応が毎回同じなんですよ。みんな異常に感動して……で、また次の日にはアカウントが消えてて」

 春野が首をかしげる仕草は、どこか子供っぽい。この男はいつもこんな調子で、些細ささいなことに疑問を抱いては俺に報告してくる。大抵は取るに足らない話なのだが、たまに妙に鋭い観察をすることがあるのが、面白くて悔しいものだ。今回はどんな考察をするのか。

「なんか変じゃないですか?」

「まあ、変ではあるな」

「ネットでは色々このアカウントに対して考察があるんですよ」

 春野がスクロールしながら続ける。その表情は真剣そのもので、まるで重大事件の手がかりを掴んだかのような熱の入りようだった。

「『AIが人間の感情を学習してる実験じゃないか』とか『亡くなった人のアカウントが自動投稿してる』とか」

 こういう都市伝説にAI説が出るのも今時だな。ある意味、不可思議なものが幽霊やお化けではなく、全てAIという存在で片付けられてしまうとも言える。便利な時代になったものだ。俺は適当に相槌を打ちながら、時計を見た。悲しいことに時間は全く過ぎてはいなかった。

「どうせ、色んなやつが真似して、アカウントを作って同じ投稿をして……っていう不幸の手紙みたいなもんだろ?」

「北島さんの時代は駅に伝言板とかあった時代ですよね? 今どき、不幸の手紙とか流行んないですよ」

 殺されてぇのか、この野郎。俺は春野を睨んだが、当の本人はスマートフォンを見たまま気づいていない。いや、気づいていて言っているのかもしれない。どちらにしろ、このピーポ君狂いの青年には敬意という概念が存在しない。

「僕はこれ、全部同じ人が書いてるんじゃないかって考えています」

「根拠は?」

「文章の書き方なんです。『娘が今日も折り紙で鶴を作った。上手になったなあ。』『妻の作った卵焼きが美味しかった。いつもありがとう。』って、必ず最後に一言付け加えるんです」

「よくある書き方だろ」

「でも、その一言がみんな同じトーンなんですよ。『ありがとう。』『嬉しいな。』『幸せだな。』って。あと、句点の打ち方も同じ。普通の人って、SNSだと文末に句点あんまり使わないじゃないですか? でもこの投稿は必ず打ってる」

 句点。文末の丸のことだ。確かに若者はSNSで句点を使わないと聞いたことがある。しかし、俺は使う。そこまで句点程度で目くじらを立てるものか?

「句点? 俺は普通に使うぞ」

「じゃあ投稿者はおじさんの可能性が高いってことですね」

 頭の中で火花が散った。拳に力が入る。申し訳ない。今まで「おばさん」と言われて怒る女性を小馬鹿にしていたが、彼女たちの気持ちが理解できた。価値観がアップデートされた。今の俺は令和最新版の倫理観だ、ありがとう春野くん。怒りが急に沸くと、ストレス反応なのか笑いがこみ上げてくる。

「ふふっ。それに、内容が異常に詳細なんですよ。『娘が七時二十三分に起きて、青い靴下を履いて。』とか『妻が左手で卵を割って、殻が三つに割れた。最初の破片は流し台の左端に落ちた。』とか」

 俺の笑いが怒りによるものと理解できない春野は、ウケたと勘違いして楽しそうに会話を続け始めた。

「まるで、忘れないように必死にメモしてるみたいな……」

「その『おじさん』は記録魔なんだろ」

 俺はそう答えたが、確かに妙に詳細ではある。普通の人間が日常を記録するにしては観察が細かすぎる。文章にする時に、自分自身で気持ち悪いと思うはずだろう。

「でも、なんでそんなに細かく覚えてるんでしょうね? 普通、卵の殻が何個に割れたなんて覚えてないですよね」

 それもそう。俺だって昨日の朝飯すら覚えていない。それにそこまで必死に家族の日常を記録する理由って何だろうか。普通の人間なら、そんな些細なことは記憶の隅に追いやられて、やがて忘れてしまうもんだ。わざわざ記録に残すということは、忘れてしまうことを恐れているのか。それとも、いずれ失ってしまうことを予感しているのか。

「不思議ですよね」

 春野が首をかしげながら続けた。

「そんなに家族のこと大切に思ってるなら、なんでアカウントを消すんでしょうかね?」

 確かに匿名で、しかもアカウントを次々と削除するなんて、まるで何かから逃げているみたいだ。記録したいならアカウントは消さないし、消すならやる意味すらない。下らない雑談かと思えば、案外面白い話だった。

「ま、結婚なんて人生の墓場だ。家族ができたって、いつか失うリスクを抱えるだけじゃないか。最初から一人でいれば、誰も失わずに済む。結婚なんてするだけ無駄だ」

 俺は思わず口にしていた。春野の話を聞いていると、どうしてもそう思ってしまう。家族の日常を必死に記録するなんて、結局は失うことへの恐怖の現れじゃないのか。そう、俺が独身でいるのは合理的判断なのだ。

「でも北島さんって『結婚しない』じゃなくて『結婚できない』って感じですもんね。でも無理しなくていいと思います! 孤独死も最近は普通らしいですし!」

 春野は満面の笑顔でそう言った。まるで俺を安心させてあげたかのような、善意に満ちた表情で。しかし、ここまで言われては俺も引き下がれない。まるで俺が女にモテないみたいじゃないか。

「やろうと思えば結婚なんて、いつでもできるさ。俺の身長を見ろ、百八十五センチだぞ。スタイルは悪くないだろ」

「でも、でかいだけの老人って介護が大変らしいですよ? それに問題は身長じゃなくて年齢じゃないですか?」

 俺はあまりの衝撃に放心してしまった、怒りすら沸かないとは。四十五歳になったというのに、このような扱いとは。おべっかを使ってもらえたり、チヤホヤされるのがこの年齢の特権ではなかったのか。やっぱり平手打ちくらいはしておこうかな、せっかくだし。

「でも都市伝説って、なんで流行るんでしょうね? みんな現実に疲れてるからですかね?」

「知らん。そんなもん信じる奴の気がしれん」

 とは言ったものの、人間って案外そういうものかもしれん。現実が辛いから、どこかに別の答えを求めたくなる。まあ、それでも俺は信じないが。

「それにちなんだ話なんですけど北島さん! 昨日の夜中にピーポ君の夢見たんですよ。ピーポ君が僕に『君は本当に僕を愛しているのか』って聞くんです。そうしたら僕、『愛してるけど、たまに顔が気に入らないことがあります』って正直に答えたら——」

 何に「ちなんでいる」のか一切分からない会話の転換に、脳が混乱する。しかし、春野は唾をまき散らしながら、いつものピーポ君の話を始めた。何十回何百回と同じような話を聞かされてきた俺の苛立いらだちはついに限界に達した。

「いい加減にしろ。お前、何のために警察官になったんだ」

「ピーポ君のぬいぐるみが欲しかったからです!」

 春野は何の躊躇ちゅうちょもなく答えた。

「はい?」

「警察官になれば、ピーポ君グッズが社員割引で買えるって聞いたんです。でも入ってみたら、そんな制度なかったんですよね」

 春野は屈託くったくのない笑顔でそう言った。この男の人生設計は根本的に何かが間違っている。仕事の選び方ってこんなのでいいのか。じゃあ、パイロットになりたい奴は飛行機のプラモデルが欲しいからか? 医者になりたい奴は聴診器コレクターなのか? 考えるだけ無駄だ。

 そのタイミングで内線電話のベルが響いた。俺は思わず受話器に手を伸ばした。救いの鐘だ。神様、ありがとう。春野のピーポ君談義を聞き続けるより、どんな面倒な通報でも対応する方がマシだった。いや、正直に言えば——都市伝説の話も、卵の殻の話も、もうこれ以上考えたくなかった。


「はい、地域安全課対応班、北島です」

『通信指令室です。住民トラブルの件で応援をお願いします』

「管轄の交番は?」

『パトロール中で手が回らなくてですね……まだ誰も現場に行ってないんですよ』

 交番の連中は向かうのが嫌らしい。暇な俺たちに押し付けたいという事だ。そう、これが住問班じゅうもんはんの仕事だ。おかげさまでOJTもバッチリだな、助かりますよ本当に。

「……分かりました、内容をお聞かせください」

 電話口から、明らかに安堵あんどのため息が聞こえた。厄介やっかい事から解放されてほっとしているようだ。住民問題対策班とは名ばかりで、実態は警察署の産業廃棄物処理班らしい。

『えっと、通報者の話では近隣住民との騒音トラブルとのことで……』

 俺らが現場に行くケースは大抵、とんでもない住民対応が待っている。通報者自体に問題があったとか、そんなパターンだ。今回も恐らくそんなところだろう。

「騒音トラブルですか」

『はい。詳しい状況は現場で確認していただければと思います。住所は——』

「分かりました。すぐに向かいます」

『時間もありますし、よろしくお願いします』

 毎回この決まり文句。閑職かんしょくの俺たちに厄介払いしているのが見え見えだった。「時間もありますし」つまりお前ら暇だろ、と暗に言いたいわけだ。毎度余計な一言を挟まないと気が済まないのか。普段からそんなコミュニケーションを取ってると彼女にも振られるぞ。ため息をつきながら受話器を置くと、春野が期待に満ちた顔でこちらを見ていた。

「北島さん! 何か面白そうな事件ですか? スーパーエリートコンビの出動ですね!」

「面白くはない」

 スーパーエリートである俺は、立ち上がりながら短く答えた。

「住民トラブルだ。お前も来い」

「住民のお悩みをバシッと解決! もしかしたらその住民は宇宙人で僕たちとバトル展開が始まるかもしれませんよ!」

 ため息が止まらない。お前はもういい歳だろ。俺も漫画とか好きだけど、流石にどうかと思うぞ。まあ、可能ならば俺だってビームを撃って迷惑な市民を焼き払ってしまいたい。まずは春野、お前を撃つ。

「この仕事はお前の考えてるような正義のヒーローごっこじゃない」

 俺は歩きながら呟いた。

「ただのゴミ収集人だ。厄介事を回収して処理するだけの」

「じゃあ北島さんは、ゴミ収集人になりたくて警察官になったんですか?」

 春野の急角度な質問に俺は少し考えた。なぜ警察官を目指したのか。二十年以上前に面接で聞かれたような気がする。意外と現職では振り返ることのない質問だ。さて、俺はなんと答えていたのか。

「……拳銃で、お前みたいなやつを撃ち殺したかったからだ」

「えっ」

「冗談だ」

 春野がほっとした表情を浮かべる。が、俺はまだ続ける。普段のお返しだ。

「本当は、婦警さんにモテたかったからだ。大学生の頃、婦警さんが好みでな」

「えっ」

「これも冗談だ」

 嘘ではない。大学生の頃、確かに婦警さんに憧れた時期はあった。でも、それが警察官になった理由かと言われれば——違う。もっと別の、今となっては思い出したくない何かがあった気がする。

「じゃあ本当は!?」春野が食い下がる。俺は面倒になってきた。コイツが婦警さんなら、喜んで答えるのだが、実際のところはむさ苦しい男だ。答える義理などない。

「知らん。忘れた」

 春野が呆れた顔をしている。珍しい。こいつがこんな表情をするのは。ちょっとした意地悪心が芽生えた俺は、春野のデスクに目をやった。机の端で今にも落ちそうになっているピーポ君のぬいぐるみ。営業スマイルを浮かべたまま、こちらを見ている気がする。腹立たしい。俺は指でデコピンの構えをした。そして——俺の指撃ゆびげきによって、このアヘ顔宇宙人はぽすん、という間の抜けた音とともに床に落ちた。

「ああっ! ピーポ君!」春野が慌てて拾い上げる。

「北島さん、ひどいです! ピーポ君に何の恨みがあるんですか!」

 春野がぬいぐるみを抱きしめながら、俺を非難するような目で見ている。こいつはピーポ君を愛しているのか、それとも虐待しているのか。そして俺は今、ピーポ君を虐待したのか、それとも春野を虐待したのか。もはや判断がつかなかった。ただ、意味もなくスッキリとした最高の気分。俺は深呼吸をしたあと、機関車のような鼻息を満足気に吹かし、何も言わずに事務室を出た。春野が慌てて後を追ってくる。背後から「ピーポ君、怖かったね……北島さんは昭和生まれだから許してあげてね」という声が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにした。昭和生まれ全員が体罰容認派なわけではないぞ。


 パトカーに向かう廊下を歩いていると、警察署内の同僚たちが俺たちを見かけては、慌てたように目を逸らしていく。彼らの表情は一様ではない。ある種の気まずさ、同情、面倒臭さ、それらが入り混じった複雑な感情が一瞬だけ垣間見える。

「北島さんって尊敬されてるんですね!」

 春野が無邪気に声を上げた。

「署内のみなさんが会釈えしゃくしてくれてますし」

 俺は歩きながら考えた。あれは挨拶じゃない、ただ目を合わせないようにしているだけだ。しかし春野の目には、この微妙な空気が好意的なものに映っているらしい。

 パトカーに乗り込み、エンジンをかける。春野は当たり前だと言わんばかりに助手席に座った。こいつが住問班に来た当初は、部下のくせに当然のように助手席に座ることに驚いたもんだ。しかし、今はもう慣れた。俺はいちいち若造に説教なんてしない。そういうものだと思って、淡々と仕事をするのが大人ってやつなんだろう。

「北島さん、さっきの話の続きなんですけど」

 春野が助手席で振り返った。相変わらずの眩しい笑顔だ。どうせ、ふざけた話をするのだろう。

「次のピーポ君のコラボは裁判所とかどうでしょうか? 法の守護者バージョン!」

「……あぁ、良いかもな」

 申し訳ない、やはり淡々と仕事をするには厳しい職場環境だ。信号待ちの間も春野のピーポ君談義は止まらない。俺は窓を少し開けて外の空気を吸い込んだ。風は温かいが、車内の空気が妙に息苦しく感じられた。

「あ、北島さん。前から思ってたんですけど、なんでピーポ君って警察のマスコットなのに『君』付けなんでしょうね? もっと威厳のある呼び方でもよかったのに」

「知らん」

「『ピーポ警部』とか『ピーポ署長』とか……」

「俺より出世が早いな、そのぬいぐるみ」

「そうですよ! 北島警部補、ピーポ署長に敬礼してください」

 俺はこの中身のない話を無視して、運転に集中することにした。このまま対向車線にハンドルを切りたい衝動を必死に抑えた。この狂ったラジオを止める方法は直接的な破壊くらいしかないだろう。それに、車というのは助手席の死亡率が一番高いらしいからな。対向車を道連れにするのは申し訳ないが。

 ああ、頭が痛くなってきた。幸い、現場までそれほど遠くなかった。

「北島さん、あのですね————」


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