異常なし
白銀 白亜
異常なし
この病院には、いくつか妙に細かいルールがあった。
それらはどれも、業務マニュアルとしては特別珍しいものではない。
しかし、実際に働き始めてみると、どこか過剰で、執拗で、理由を説明されない決まりが多いことに気づく。
その中でも、夜勤に関する規則はやけに厳しかった。
半年以上勤務しなければ、夜勤には入れない。
例外はない。
能力や経験ではなく、在籍期間だけが条件だった。
日勤の賃金は安い。
生活できないほどではないが、余裕があるとも言えない。
一方、夜勤は賃金がいい。
同じ時間働いても、手当がつくだけで月の収入が目に見えて変わる。
だから、誰もが半年という区切りをひとつの目標にしている。
休憩室では、そんな話題が自然と出た。
「あと三か月で夜勤だ」
「半年経ったら、少しは楽になる」
私も、その一人だった。
入職してからの半年間は、目の前の業務を覚えることで精一杯だった。
患者の名前、病室の配置、ナースコールの音の違い。
それらを身体に染み込ませるだけで、毎日が終わっていった。
そして、半年が経った。
ようやく夜勤に入れることになった初日。
私は少し早めに出勤し、ナースステーションでシフト表を確認した。
自分の名前の横に並んでいたのは、大塚だった。
見慣れた名前だった。
廊下を歩けば必ずどこかにいて、困っているときには黙って手を貸してくれる。
口数は多くないが、仕事は早い。
周囲からも信頼されている先輩だった。
「よろしく」
声をかけてきたのは、その大塚本人だった。
改めて見ると、年は十ほど上だろうか。
白衣の袖口には、何度も洗われた痕が残っている。
この病院で長く働いてきた人間特有の、余計な緊張感のなさがあった。
「こちらこそ、お願いします」
そう答えると、大塚は小さく頷いた。
夜勤の準備をしながら、大塚は何気ない口調で言った。
「夜勤やるのはいいけどさ」
手袋を整え、記録用のファイルを確認しながら。
「ルールだけは守ってね」
冗談めかした言い方だったが、どこか含みのある言い方にも聞こえた。
夜勤記録に関するルールは、初日にまとめて説明されていた。
紙に印刷された規則を、上司が淡々と読み上げる。
その声を聞きながら、私はメモを取っていた。
――巡回した病室は必ず記録すること。
――異常がなければ、必ず「異常なし」と記入すること。
――「特に無し」「問題なし」などの表現は禁止。
――異常があった場合のみ、状況を書くこと。
――夜勤担当者は必ず自分で自分の名前を書くこと。
――日勤交代のチャイムが鳴る前に、すべて完了していること。
どれも、一つひとつを見れば理解できる内容だった。
だが、まとめて聞くと、正直言って細かすぎると感じた。
特に、言葉遣いの指定。
「異常なし」以外は書くな、という指示は妙だった。
意味は同じなのに、なぜそこまで限定するのか。
だが、その理由を尋ねる人はいなかった。
質問が出ないこと自体が、この病院では普通だった。
そういうものなのだろう、と私は受け入れた。
夜勤は、思っていたよりも静かだった。
日中のざわめきが嘘のように消え、灯りを落とした廊下は長く、奥行きが分からなくなる。
靴底が床に触れる音が、やけに大きく響いた。
患者の寝息、医療機器の作動音。
それらが混じり合い、夜独特の空気を作っている。
三週間ほど経ったころ、私は夜勤にも慣れ始めていた。
巡回の順番も、記録を書くタイミングも、自然に身体が覚え始めていた。
そして、その夜が来た。
304号室の患者が、心肺停止を起こした。
ナースコールが鳴り、空気が一気に張り詰める。
廊下の静けさが、一瞬で破られた。
医師を呼び、処置を行い、周囲は慌ただしくなる。
時間の感覚が曖昧になり、何をどこまでやったのか、後から思い出せなくなる。
記録は、後回しになった。
見回りは、全室できなかった。
回れたのは、109号室、302号室、そして304号室だけだった。
夜が明けかけた頃、空が白み始めたころ。
大塚が私にファイルを差し出した。
「忙しいから、記録書いておいて」
疲れ切った声だった。
ファイルを開くと、すでに一番下に大塚の名前だけが書かれていた。
記録内容は空白のまま。
私は急いでペンを取った。
109号室 特に無し
302号室 特に無し
304号室 心肺停止につき対処
一文字一文字を丁寧に書いている余裕はなかった。
とにかく、埋めることを優先した。
書き終えてから、大塚の名前の横に自分の名前を書き足す。
本来なら、ダブルチェックをしてもらうべきだった。
ルールにも、そう書いてあった。
だが引き継ぎで大塚は別の対応に追われていた。
声をかけるタイミングを逃し、そのままファイルを閉じてしまった。
声をかけるのを、やめた。
――日勤交代のチャイムが鳴った。
翌週の夜勤。
私は何気なく、大塚に尋ねた。
「109号室と302号室の患者さん、退院したんですか?」
大塚は一瞬、きょとんとした顔をした。
「……? そこ、最初から空室だよ」
耳鳴りがした。
ファイルを確認すると、確かにそうだった。
患者名はない。
記録には、「特に無し」とだけ残っている。
そのとき初めて、私はルールを思い出した。
――異常がなければ、「異常なし」と書くこと。
私は、破っていた。
それ以来、私は記録に異常なほど気を使うようになった。
「異常なし」
その四文字を、何度も確認する。
ペンを置いたあとも、もう一度目で追う。
文字の形が崩れていないか。
余計な線が混じっていないか。
自分の字であることが、はっきり分かるか。
異常がないことを確認する、というよりも、
異常がなかったことを成立させるために書いているような感覚だった。
書き間違えがないか。
部屋番号は合っているか。
巡回した順番と記録の順番がずれていないか。
そして最後に、必ず確認する。
時計を見る。
秒針の動きが、以前よりも気になる。
チャイムが鳴るまでの残り時間を、無意識に計算している。
――チャイムが鳴る前か。
それらをすべて確認してから、ようやくファイルを閉じる。
閉じたあとも、不安になってもう一度開くことがあった。
患者が消えた理由を、誰にも話さなかった。
話せば、自分が疑われる。
そういう意味での「疑い」ではない。
責任や過失というより、
頭がおかしくなったのではないか
という目で見られるのが、容易に想像できた。
それ以前に、説明できなかった。
「記録の書き方を間違えたら、患者がいなかったことになった」
そんな話を、どう説明すればいいのか分からなかった。
自分自身、まだ整理できていなかった。
あの夜、確かに確認した。
会話もした。
体温も、呼吸も、確かめた。
それなのに、記録がそうなっていない。
それだけで、すべてがなかったことになる。
考えないようにした。
考え始めると、足元が揺らぐ感覚があった。
数か月が過ぎた。
夜勤は日常になり、
私は「気をつける人」として振る舞うことにも慣れていった。
慎重すぎる、と言われたこともある。
だが、それでいいと思っていた。
その夜も、忙しかった。
ナースコールが続き、
廊下を何度も往復する。
対応が重なり、記録は後回しになった。
時計を見ると、思っていたよりも時間が過ぎていた。
記録室に戻ったとき、
ファイルはすでに机の上に開かれていた。
誰かが、先に書いたのだと分かった。
ページをめくると、
整った文字が並んでいる。
108号室 異常なし
204号室 異常なし
206号室 異常なし
307号室 異常なし
どれも、ルール通りの表現だった。
余計な言葉はなく、簡潔で、迷いがない。
その下に、浅香の名前があった。
浅香は、この日の夜勤ペアだった。
業務も正確で、記録も丁寧な先輩だ。
内容は完璧だった。
表現もルール通り。
直すところは、どこにも見当たらなかった。
私は一瞬だけそれを確認し、時計を見た。
もうすぐ、チャイムが鳴る。
秒針が、やけに大きな音を立てて進んでいるように感じた。
胸の奥が、少しだけざわつく。
「書いてある」
そう判断してしまった。
浅香が書いたのだ。
内容も合っている。
時間もない。
そう考える理由はいくらでもあった。
私はそのまま、ファイルを閉じようとした。
そのときだった。
背後から、浅香の声がした。
「名簿、書いた?」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「え?」
間の抜けた声が、自分の口から出る。
浅香の顔を見る。
表情は、いつもと変わらない。
確認するような、ただそれだけの目だった。
私は反射的に答えていた。
「……浅香さんが書いたんじゃ……」
言いながら、違和感が広がる。
浅香は、何も言わなかった。
ただ、こちらを見る。
私は、慌ててファイルを開き直した。
記録は、そこにある。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
そして、浅香の名前。
だが――
私の名前は、どこにもなかった。
一行一行、見直す。
名簿欄を見る。
ない。
確かに、ない。
浅香が記録を書いた痕跡はある。
だが、夜勤担当者としての私は、どこにも記されていない。
胸の奥が、ひゅっと縮む。
喉がひくりと鳴った。
何か言わなければならない。
今すぐ、名前を書かなければならない。
そう思ったはずだった。
だが、言葉が出てこない。
身体が、動かない。
慌ててペンを手にしようとした。
その瞬間。
――日勤交代のチャイムが鳴った。
異常なし 白銀 白亜 @hakua-96
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