お守り

「あれ、」


車が徐々に馬力を失い、道路の真ん中で静かに停止した。

完全に停止した後、鍵を回してみたが手ごたえはなく、エンジンがかかる様子は一切見られなかった。

運が悪いな、と思いながら助手席で眠っていた彼女を揺する。


「ん?」


「エンストしちゃった。レッカー呼んでくれん?」


「充電切れた」


彼女はスマホの真っ暗な画面に向けてひらひらと振りながら云う。

幸いなことにほかに車は走ってなく、通行の妨げになることはなさそうだった。

仕方なしに車から出て一番近くの一軒家のインターホンを鳴らす。

何度押しても応答はなかった。隣の家も、その隣も同じだった。人の気配がまるでない。彼女が後ろから僕の肩を叩く。「あそこ」と細い指が示す先に、木々の間から赤い何かが見えた。

家と家の間に石畳の階段が三十段程あり、その上には神社の鳥居があった。

古びた鳥居は苔で覆われていて、手入れされている様子はなかった。

朱色の逆光で神社は少しもの寂しく見える。


「せっかくだし、寄ってく?」


彼女はどこかワクワクとした口調で神社を指差す。

神社なんかに誰もいないだろと思いながらも彼女の提案を受け入れた。


階段を登り切ると、意外にも拝殿の前に人影があった。白い装束を着た若い巫女が、箒で境内を掃いていた。落ち葉が箒の先で小さな音を立てる。僕たちに気づくと、巫女は箒を持ったまま軽く会釈をした。


「すみません、この辺で電話を借りられるところはありますか」


僕が訊ねると、巫女は首を横に振った。


「申し訳ございません。社務所には電話がないんです」


思ったより若い声だった。二十代前半くらいだろうか。


「そうですか……」


困り果てた僕の様子を見て、巫女は少し考える素振りを見せた。


「この街には商店がありますが、ここからだと歩いて三十分ほどかかります」


三十分。日が暮れる前に行けるだろうか。


「お参りだけでもしていかれますか」


巫女は拝殿の方を示した。確かに、せっかく来たのだからと思い、僕たちは拝殿に向かった。

古い拝殿だった。賽銭箱の塗装は剥げ、注連縄は色褪せている。それでも鳥居と違って丁寧に掃き清められていて、荒れた印象はなかった。

僕たちは小銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼をした。「車が直りますように」とだけ心の中で呟いた。

振り返ると、巫女が社務所の方から戻ってきた。その手には、二つの朱色のお守りがあった。


「これ、ぜひ」


朱色の二つのお守りを僕たちにそれぞれに手渡される。

金色で文字が書かれているが、草書体でよく分からない。

「大切な方ですか」巫女は僕たちを交互に見て、穏やかに微笑んだ。「お二人で持っていてください」

お金を払おうとすると、巫女は首を横に振った。「お気持ちだけで」

礼を言って階段を降りると、不思議なことに車のエンジンはあっさりとかかった。


数か月が経ち、僕らはあの日のことはもうすっかり忘れていた。

お守りは財布の中に入れたまま、特に意識することもなかった。彼女も同じだろう。あの神社がどこにあったのかさえ、もう思い出せなかった。

講義が終わった後の帰りだった。

彼女は風邪気味だったので、今日は家で休んでいた。

駅前の交差点で信号待ちをしていた。赤信号。僕は青信号に変わるのを待ちながら、スマホで彼女にメッセージを送ろうとしていた。

その瞬間だった。

右側から、ものすごい勢いで何かが突っ込んでくる音がした。

ブレーキの悲鳴。そして、衝撃。

何かが僕の体を押しつぶそうとしていた。でも、不思議と痛くなかった。

気がつくと、僕は数メートル離れた場所に立っていた。目の前では、車が信号機に突っ込んで大破していた。フロントガラスは粉々に砕け散り、ボンネットは凹んでいた。

あの車が、さっきまで僕が立っていた場所を通過したのだ。


「大丈夫ですか!」


誰かが駆け寄ってくる。周りには人だかりができていた。


「え、僕、大丈夫です」


自分の体を確認する。どこにも傷がない。服も破れていない。血も出ていない。

救急車のサイレンが近づいてくる。救急隊員が僕を診察し始めた。


「本当に、どこも痛くないんですか」


「はい、全然」


「信じられない……あの車、あなたが立ってた場所を通ったはずなのに」


救急隊員も首を傾げていた。「奇跡ですね」と何度も繰り返した。

念のため病院に運ばれ、検査を受けた。レントゲン、CT、全身をくまなく調べられたが、異常は何一つ見つからなかった。医師も不思議そうな顔をしていた。


「本当に、どこも悪くないです。帰っていいですよ」


診察室を出て、待合室で書類を書いている間、僕は彼女に連絡を入れた。

電話は繋がらなかった。代わりにLINEで「ちょっと遅くなるかも」と送った。

検査が終わるとすぐに、僕はタクシーを拾って家へ向かった。



ドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。


「ただいま」


返事はない。

電気をつける。玄関から続くリビングは、いつもと変わらない様子だった。脱ぎ散らかされた服、開きっぱなしの雑誌、テーブルの上のマグカップ。

でも、彼女の姿が見えない。

寝室に入ると何かが視界に映りこんだ。

床に倒れている彼女だった。

頭の一部は凹み、四肢はあらぬ方向に曲がっていた。

床には彼女の身体と一緒に何かが落ちていた。

不自然に縦に真っ二つに裂けた朱色のお守りだった。

僕はポケットから財布を取り出した。

そこには全く同じ裂け方をした朱色のお守りがあった。


朱色の日光がカーテンを突き抜けて彼女を照らした。

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