第一章 ウィル
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ヒトは過去に屈する生き物だ。
絶望的な未来よりも。過ぎ去った温かい過去に縛られ、可能性の絶えた過去に死んでいく。
けれど、ある男がその意志を持って証明した。
今を生きるからこそ、過去を乗り越えることも、過去から響いてくる栄光や失敗の影を倒すこともできるのだと。
その男の名はウィル・ストランド。
この四〇〇年余りにおいて。
――世界で初めて、「
〓
白い煙が、夕焼けに溶けて滲んで、消えていく。
紫煙の残り香を手繰るように、ウィルは深呼吸をした。
「なまってるな……服がきつい。痩せたほうだと思うが」
そんな独り言が漏れる。ウィルはかつての全盛期を思い、そしてまだまだ取り戻せるだけの自信を、この三ヶ月で掴んでいた。
幸せ太りはまだまだいい。それは許せる。
しかし、その後の酒に溺れ堕落した己が許せなかった。
オフィーリアがどんな思いだったか。誤って許されるとは思えない。だが、諦めて酒をかっ食らうのはもうおしまいだ。
「やあウィル。休憩かい」
「ギークマン。お前は。寝たのか?」ウィルは己の涙袋のあたりをなぞる。「隈ができてる」
「急な仕事でね。ああ、大切な。風に当たって、したら、仮眠する」
ウィルはそうか、とだけ言った。そして、小柄なアニメ・オタクの技術屋の肩を叩いて船内へ戻る。
ここはPR船。またの名を、
端的に言えば、陸を歩く船である。
六本の歩脚が逐一地形をスキャンし、コンマ秒刻みで演算、適切な一歩を踏みしめる。
重機を打つような音。しかしそれがもたらすのは、蹂躙という恐怖ではない。
人々に希望をもたらし、鼓舞する足音だ。
胸から下げるロケットが、飛脚人タグと当たってかちかち鳴った。
「ただいま」
プライベート・ルーム。極めて危険な仕事につく飛脚人らに与えられる特権の一つ。
ウィルは立ててある写真にそう言った。
彼はおいてあるケースを少し見て、触れかけて、やめた。
今日も外は暑かった。
鼻歌を歌う。サムズアップというバンドの有名ナンバー、ハローグッド。
汗ばんだシャツがかごに引っかかっていた。
ウィルは自分がいつになく男臭いことを自覚し、もうそういう歳なのかと眉を一つ跳ねさせる。
「三十五か。そら、老けるな」
洗面所にロケットとタグを置いた。
「あなたまた、甲板で煙草吸ってたんですって? やめたって聞いたのに」
スピーカーから声がした。内容の割に。口調は咎めると言うより、なんだか面白がっている。
「ああわかってるよ」ウィルはそういって、シャワールームに入る。「やめたんだが、それは酒の話さ。煙草はやめた。やめるのを、やめたんだ」
そこは頑丈な船である。船内には生活に必要なものが揃っていた。
ウィルの自室にはいろいろな写真や、ミュージックアルバム、インスタントカメラなんかもある。
それから、「ブラッキーベリーズ」という銘柄の煙草も。
「やめるのを、やめたの? ふふ」
「そうだ。煙草はやめるべきじゃあない。俺はな」
言い訳っぽいウィルの声の出どころは移動している。自室に設えられているカプセル状のシャワールームからしていた。
「今回の記録は一週間ね。最長記録よ」
「……禁煙は、俺の精神的寿命を削る。多分。君たちの寿命も。だから部屋と外でしか吸わないよ」
すごい理屈である。いや、屁理屈か。後半の気遣いは、ある種罪悪感なのかもしれないが。
「通信切ったほうがいい?」
「テレパスじゃあないなら、見えやしないだろ」
先んじて彼はバスルームを軽く掃除していた。
というのもこれは日課だ。先にさらっと磨いて、体と一緒に湯で流せば、大切な水の節約になる。
使い込んだハンドブラシは、彼の握力でくぼんでいた。
それを吊るしてあるかごに引っ掛ける。
「またお掃除? 潔癖症だっけ?」
「ちがう。風呂場が汚いと嫌だろう。それに水回りがきれいだと商売運が上がるんだ。ギークマンが言ってた」
蛇口を捻って、湯を出した。が、体を打ったのは熱い慈雨ではなく、新品の鉄みたいに冷えた水だった。「つべてっ、おい、給湯器を直しておけと……」
驚いてぶんぶん顔を振った。
船内にめぐらされた有線通信のスピーカーから笑い声がした。
「笑うな、ジーナ。俺は真剣だ」ウィルは人差し指でシャワーヘッドを示した。「仕事終わりの熱いシャワーは、最高の贅沢なんだぞ」
「わかってる。ごめんなさい。でも、しゃっきりして気持ちいいでしょ」
「ったく。俺はまだいいが……」ウィルは冷たいシャワーを頭からかぶった。「子供には悪いだろう」
「大丈夫よ。ギークマンがさっき、優先的に直してくれたの」
そうか、とウィルは言い、冷たいシャワーを全身に浴びた。
水が流れ落ちていくその体には、大小さまざまな傷があり、彼の「飛脚」という仕事が決して楽なものではないことを物語っている。
三十五歳、ウィル・ストランド。
ポーターズ&レンジャーズ――運び屋にして探索者である「飛脚」をしている。
飛脚の代表的な事業である「PR活動」における、元プロフェッショナル。
シャワーを浴び終えた彼は、浴室から出ると「夏じゃなきゃ凍死してた」と言いつつ、黒い髪を拭って、シャツに着替えた。
「ライターはどこだったかな」
癖で無精髭の散る顎を撫でる。
その手触りがチクチクを超えてしまっており、だらしない長さだと自覚した。掴みかけた紙箱を、惜しむらくも、また置く。
「剃らなきゃな……愛しの、煙草。待っててくれ」
洗面所の曇ったガラスをタオルで拭う。映るのは、年相応の男。これでも、酒に溺れていた頃よりずっと生き生きしている。
スチーマーに入れてある熱いタオルを取って、口元に当てた。
「ああ面倒だ。ヒゲとすね毛ほど意味のわからん機能はない」
クリームを手にとって顎にべったり塗る。立ててある青い剃刀を手に取った。
「男に生まれた面倒くささの中で一番がこれだ」
彼は昔から独り言が多い。胸の内ではいた言葉が、自然と口にも乗ってしまう。
髭を剃り水で顎を拭うと少しひりひりした。労わるようになでる。
「ジーナ、聞こえてるか」
ライターは作業机の引き出しにあった。
「相変わらず独り言が多い」
「直らないくせだ。それより明日の依頼だが……ブリッジへ行けばいいか」
「いいえ食堂で。物騒な仕事じゃないから。……ジーグもいるわ」
「そうか」ウィルは微笑んだ。「じゃあ、煙草はもう少し我慢するよ」
「そうしてちょうだい」
ウィルはまたしても掴みかけていた煙草の紙ケースを、ポケットに入れそうになる前に、指弾した。
己の部屋から出る前に、ロケットとタグを首に巻いて、写真を見る。
「行ってくる」
廊下にはいろいろな文字が――
「PR委託派遣事業 シールドランズ社」
それが、現在ウィルが身をおいている組織だ。
「適正価格で安全な、PRサービス事業の利用」が企業理念である。
社訓は、「未来を奪わず、みんなのところへ」。
この時代、誰も殺さないPR業者――「飛脚」なんて、まず廃業だと言われている。
当然だ。荷物を奪う
縄で荷物を縛って運ぶより、棒を振るって奪ったほうが楽。それが常識だった。
だが、ウィルは唯一、誰も殺さない飛脚として知られる男であり――。
その
「今日の飯は何かな。また豆かな」
声は少し、落ち気味のトーン。豆は嫌いじゃない。が、続くとうんざりする。
「たまには人らしい飯を食いたい」
食堂には休憩時間のクルーがおり、挨拶を交わしつつ、ウィルは窓際席へ。頑丈な装甲ガラス窓の向こうには、美しい、緑の世界。
厨房ではコックが料理をしている。
「豆じゃなさそうだ」
と、そこへ手押し車に掴まって、ウィルのもとへやってくる子供がいた。
かたかた鳴るそれが、ウィルが履いている頑丈なブーツをこつ、と叩く。
「やあ。ビークルに乗って配達か、ジーグ。優秀だな、誰も傷つけてないぞ」ウィルは今年一歳になる、ジーナの子供を抱き上げた。
「荷物の状態は最高だな」彼が運んできたのはウィルの大好物である、ピーナッツバターの小袋。「ああ、俺も本格的に引退を考えないと」
自分には決して残せない、未来のカタチ。だからこそ、尊い。
「この船には立派な飛脚がいるみたいだ」
ウィルは静かに言いつつ、席に座った。
周囲のクルーは「未成年就労はまずいんじゃないんすか?」なんて冗談を飛ばしていた。
「たしかに。雇うには若すぎないか?」そう続けると、クルーたちが耐えきれず笑い出した。
ウィルはジーグを幼児用の椅子に座らせてやった。
ジーグは「優しくしてくれるおじさん」であるウィルの、剃りたての顎をペタペタ触った。
「ああ、これか?」ウィルは対面の席に回り込む。
仲間の一人から受け取った代用コーヒーをすすりながら、「やっつけたよ。ヒゲ・エコー野郎をな」
「血は争えないわね」トレイを持って来たジーナが少し寂しそうに笑う。「ジーグも飛脚に鳴るのかしら。……そうそう、今日は豆じゃないから」
「いい知らせだ。豆にはうんざりだった」
ウィルはトレイを自分の方へ寄せる。
スクランブルエッグと、燻製肉のスライス、チーズスプレッドを塗ったトースト、それから野菜スープ。
「ごちそうだな。なにかあったのか」ウィルは、スプレッドを塗ってないほうのトーストに、ピーナッツバターを塗る。
「さっきの寄港地で、いい取引ができたの。それで」
「へえ」
ウィルはスクランブルエッグにケチャップを垂らし、フォークですくって食べる。
ジーグは幼児食の、柔らかいじゃがいもを食べていた。
擬似的な親子のようだと思う。
自分と、ウィル、そしてジーナ。
そしてそれは、ジーナも自覚しているだろう。
ウィルだって子供ではない。
未亡人であるジーナも、我が子を思わばこそ、何を考えているのかもわかる。
けれど、まだ、勇気もないし資格もない――。
「明日はどこに。危険のない仕事だとさっき聞いた」
「まず、おさらいよ」ジーナは、フォークで柔らかく煮た野菜を、ジーグの口に運んでいく。
「私達がPR活動をするには、まず、航路の開拓をしなくてはならない。
「ああ。エーテルは積めば積むほど不安定化する。それは過去に沈んだ可能性の氾濫を招く」
それは最悪の場合、絶滅現象を起こすとされていた。
エーテル技術なしに現代の生活は保てない。だが、すぎたエーテル技術は種を消し去る。
「だから俺達が各地へ出向く前に、ルートの確保を兼ねたPR活動を行い、寄港地へアプローチする」
ストランディング・シップス。
それは数百年前、人類が絶滅しかけた最悪の厄災を生き延びるため編み出された知恵。現代の常識であり、当たり前のもの。
星は自然に還り、人は道徳を忘れ、すべてがその繋がりを失いかけている。
人が外と、ほかの社会と接岸するための技術。
そのための船であり、飛脚で、PR活動であった。
「私達は人を叩く棒ではだめなの。人を繋ぐ縄でなくては」
「ああ。だから俺はまたこの仕事をやっている」
ウィルは視線をジーグに向けた。初めて食べるにんじんはあまりお気に召さないらしい。
「ジーグ、俺もにんじんは嫌いだが、食べておいたほうがいい」ウィルはそう言って、自分のスープに浮かんでいるにんじんを見えるようにスプーンへすくった。「飛脚の栄養だ」そういって、食べる。
無骨な教え方である。ジーナがまたにんじんを子に差し出すと、彼はしっかりと食べた。
「次の依頼は、フィールドワーク?」
「ええ、小規模なコミュニティへ医療品を届けるのがついで」
「ああなるほど。わかった」
ウィルはそう言って、頷いた。
翌日。
今年の夏はうだるようだった。高原地帯に隣接する森林からは、セミが、悲鳴のような声を上げている。
「装備点検良し、配達物確認よし、護身用拳銃、スタンロッド出力よし」
ウィルは台の上の装備を指さし、チェック。
それらを装備する。
出撃ゲートにはすでにビークルも万全の状態で待機。クルーたちが最終チェックを完了し、「いけます!」と言った。
ウィルたちを腹に抱えた船は、ある高原地帯の南東にあるくぼみに身を潜めるようにして待機していた。
この世界は
フィールドの調査は必須だった。
現地を旅し、移動ルートの指針を見つける存在が。
そうした
その最たる業務形態、移動可能なカンパニーが、
――ストランディング・シップス。
である。
ジーナが社長を務めるシールドランズが保有するそれは、全乗組員二四七名を数える、ガレオン級に分類されるものだ。
六本の脚を持ち、あらゆる地形を走破しながら移動する陸上船の一種。
見た目は「歩く要塞」で、一見、無骨な重火器を装備しているが――。
頭を丸刈りにして、ヘルメットを被った整備クルーが鼻歌を歌いながら調整しているそれらは、人を殺すことを前提としていない。
「五十二番ナット問題なし! 非殺傷エーテルパルス発振器異常なし!」
「よろしい、工具箱の中身は」
「すべて収納済みです、チーフ」
「よし。休憩に入れ。塩を舐めておけ。汗をかいたろう」
整備クルーの指差し確認と、チーフのやり取り。船の日常。
武装は非殺傷エーテルパルス妨害装置と、風圧式の制圧噴射器。
それから敵船の装備を撹乱するためのエーテリック・チャフ・ランチャー、攻撃を防ぐためのバリア・フィールド装置。
その他、走行系を撹乱するエーテル
非殺傷で、相手から逃げる兵器が多数ある。
――そんな大型船の出撃ハッチで、ウィルは医療品をパッケージングした配送ボックスを背負った。
彼はポーターズ・スケルトンという強化スーツを着込み、その上から身を守る装甲プレートと、頑丈なボックスを取り付けている。
腰には、非殺傷催涙弾が装填されている銃。腰には、スタンロッド。
「あんたと仕事ができるとは。アンブレイカブル。人を殺さない、人と繋ぐ飛脚」
五十も半ばの管制官がそう言った。
「買いかぶりだ。他人を傷つける度胸がない腰抜けなだけだ」
ウィルは言いながらリバーストライクに跨る。物理キーを捻ってエーテルエンジンを始動。
「行ってくる。ゲートを開けてくれ」
ウィルが言うと、この道三十年のベテラン
「ゲートオープン。ウィル、今回は比較的安全なだけだ。絶対的安全じゃあない」と念を押した。
「わかっている、配達を終えたら……必ずもどる」と返した。
排気管から、青い、エーテル粒子が散り――。
前輪が駆動。ぎゃるっ、とタイヤが装甲板を噛み、発進した。
――なぜ自分はまたこの仕事をやっているのだろう。
嫌々ではない。
己にしかできない。その自負はたしかにある。プライドもある。
だが決して、そんな自己陶酔と、自己顕示だけが理由ではないと思っている。
リバーストライクはそんな悩みを振り切るように、高原地帯を加速して、走っていった。
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