HitchHiker
おちゃちゃ
第1話 からっぽ
40代という人生の折り返し地点で、佐藤はすべてを失った。名前は春樹という。昨日までの「夫」という肩書きも、愛する娘の柔らかな手の感触も、長年かけて築いたマイホームも、通帳に並んでいた数字も、今はもう砂のように指の間からこぼれ落ちていった。妻の裏切りを知ったあの日から、世界は一変した。狡猾に進められた離婚協議。詰め寄ることもできぬまま、法的な書類一枚で彼は「余計な荷物」のように家庭から放り出された。数枚の千円札が入った財布と、着替えを詰めた古びたボストンバッグ。それが、彼の人生の残りカスのすべてだった。
国道沿いを歩く佐藤の背中を、容赦のない強風が叩きつける。この風はまるで、世間から「お前などもう必要ない」と追い立てられているようで、ひどく冷たく、鋭い刃物のように感じられた。アスファルトに落ちる自分の影だけが、唯一の連れ添いだった。時折通り過ぎる車の排気音が、自分を嘲笑う声のように聞こえた。足が棒のようになり、力なく歩道脇の錆びついたガードレールに腰を下ろしたときだ。目の前に、泥を跳ね上げた年季の入った軽トラックが静かに止まった。運転席から顔を出したのは、日焼けした顔に深い皺を刻んだ、海辺の街が似合いそうな初老の男だった。
男は、力なくうなだれる佐藤の横顔をじっと見つめると、短く「つれない顔だねぇ」とだけ言った。否定する気力も、取り繕うプライドも残っていなかった。男は無造作に助手席のドアを開け、顎で乗れと促した。車内には、微かに潮の香りと、古い畳のような落ち着く匂いが充満していた。車はガタガタと悲鳴のような音を立てながら、内陸の殺風景な景色から外れ、緩やかな坂を登っていく。車内には会話はなく、ただエンジンの野太い唸り音だけが響いていた。佐藤は窓の外を流れる見知らぬ景色を眺めながら、自分がどこにも属していない自由と、それ以上に深い孤独を噛み締めていた。
しばらくして男が車を止めた場所は、視界が唐突に開けた断崖の上の展望台だった。男に促されるまま、重い体を引きずって車を降りると、そこには見渡す限りの群青色の海が広がっていた。水平線が緩やかに弧を描き、西に傾きかけた太陽の光を跳ね返して、残酷なほどキラキラと輝いている。その圧倒的な広大さに、佐藤は呼吸することさえ忘れた。その時、またあの強い風が吹いた。国道で自分を追い詰めた、あの冷酷な風と同じはずだった。しかし、遮るもののない海の上を渡ってきたその風は、今はなぜか、佐藤の火照った頬を優しく撫で、喉の奥に張り付いていた感情の澱をさらっていくように感じられた。なぜだか分からない。理屈では説明できない。けれど、その風の心地よさに触れた瞬間、絶望で空っぽだったはずの胸の奥から、熱いものがせり上がってきて、涙が溢れてきた。裏切られた怒りでも、失った悲しみでもない。ただ、世界にはまだこんなに透明な色があり、自分はまだその中で息をしているという事実に、止まらない涙を抑えることはできなかった。隣で煙草をくゆらせる男は、何も言わず、ただ海を見ていた。佐藤は袖で乱暴に目を拭い、生まれて初めて、見知らぬ誰かの計算のない善意に生かされたことを自覚した。自分の足だけで、孤独に歩き続けるのには、もう疲れてしまった。ここから先、どこへ向かうべきかは分からない。けれど、この風が運んでくれる縁に、これからの自分を預けてみようと思った。
佐藤は男に深く頭を下げると、再び道端に立ち、決意を固め、ゆっくりと親指を立てた。
HitchHiker おちゃちゃ @SO_tea
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。HitchHikerの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます