第7話

 辿り着いたベルンハルト侯爵邸は、夜の闇の中でも圧倒的な存在感を放っていた。


 重厚な鋳鉄の門扉には、家紋を象った精緻な透かし彫りが施され、開かれたその先には白砂の敷かれた広大な馬車道が本邸へと続いている。

 手入れの行き届いた庭園を抜け、正面玄関に差し掛かると、そこには数人の使用人たちが明かりを手に整列して待っていた。


「アルフォンス様!」


 近づく足音に気づき、人々が足早に歩み寄ってくる。

 中心にいるのは、厳格そうな面持ちをした六十代ほどの老紳士と、銀髪を隙なくまとめ上げた五十代の女性だった。


 その佇まいから、彼らが執事と家政婦長(メイド長)であることを直感する。


「デイン、遅くなってすまない。舞踏会で少々……衝突事故があってね」

「衝突、とおっしゃいましたか!?」


 アルフォンス様の言葉に、執事のデインは色を失った。

 背後に控える使用人たちも一様に動揺し、主の体を検分するように慌ただしく取り囲む。


「お怪我は!? おい、誰かすぐに担架を持ってまいれ! 医師を呼ぶのだ!」


「落ち着け、デイン。私は無傷だ。……衝突したのは体ではなく、目だからね」


「……旦那様が訳の分からないことをおっしゃっている。やはり頭を強く打たれたに違いない!」

「おいおい、失礼な……」


 大袈裟なまでに右往左往する使用人たちをアルフォンス様が軽くいなすと、ようやく彼らも、主が五体満足であることを確信したようだった。


馬車も使わず徒歩で帰還したという事実への驚きは残っているようだが、彼らの関心は、次いでその隣に立つ「異物」――すなわち私へと向けられた。


 当然の反応。

 眩いばかりの侯爵の隣に、ボロボロに汚れ、見る影もなくやつれたメイドが一人。


 場違いな闖入者を見る彼らの視線は、鋭く私の肌を刺す。


 私はおずおずと視線を落とし、足元を見つめて沈黙を守るしかなかった。

 すると、アルフォンス様がまるで道端で美しい花でも見つけてきたかのような軽い口調で、説明を始めた。


「舞踏会で目が合ってね。これから我が家で働くことになった子だ。面倒を見てやってくれ」


 使用人たちの表情が凍りつく。


 「はあ?」という困惑を隠しきれない彼らの中でも、ひときわ厳しい視線を送ってきたのは、ロゼッタと呼ばれた家政婦長だった。


 彼女の背後に控える、私と同年代と思しき若いメイドたちの瞳には、警戒と嫉妬の混じった色が浮かんでいる。


 直感的にわかった。

 彼女たちは単なる使用人ではなく、アルフォンス様という光を慕う信奉者でもあるのだと。


「ロゼッタ」


 名を呼ばれた瞬間、彼女の険しい表情は、完璧に訓練されたプロの顔へと戻った。


「はい、アルフォンス様」

「私も彼女も、酷く疲れていてね。時間は遅いが、適当な空き部屋をあてがって休ませてやってくれ」

「……恐れながら、旦那様」


 ロゼッタが、どこか不服そうな、含みのある声を上げた。


「現在、メイドたちの居住棟は満室でございます。新しく入る者を収容する余地はございません」

「ならば、客室に案内すればいいだろう?」

「旦那様!」


 今度は執事のデインが、たしなめるような声を上げた。


「先ほど、この娘を『使用人』として雇うと仰いましたな? ならば、客人用の居室を割り当てるのは、屋敷の秩序として無理がございます」


 ロゼッタもまた、その言葉に深く頷く。

 二人の頑なな拒絶を前に、アルフォンス様は困ったように、けれどどこか楽しげに、さらりと言い放った。


「困ったな。メイド棟に空きがないというのなら……いっそ、私の寝室に泊まらせることにしようか?」


 その言葉が放たれた瞬間、玄関ホールにいた全員が、まるで雷に打たれたような衝撃を受けて硬直した。


 すぐに執事デインの悲鳴にも似た怒声が飛んでくる。


「断じて、断じてあってはならないことです!」


 デインが顔を真っ赤にして猛反対する傍らで、若いメイドたちの視線は、いっそう鋭い刃となって私を切り刻む。

 家政婦長のロゼッタもまた、氷のような冷徹な声で問い詰める。


「そもそも、この娘(こ)は何者なのですか? 『目が合った』などという言葉だけでは、この異常な事態を飲み込めと仰る方が無理というもの。……一体、どこの誰を、どのような経緯で連れ帰られたのです?」


 泥を被り、雨風にさらされたような惨めな姿の私を見据え、全使用人の疑念が渦巻く。

 その中心で、アルフォンス様だけは相変わらず淡々と、けれど私の瞳を慈しむように見つめながら答えた。


「見ての通りだよ。この上なく美しい、緑の瞳をした令嬢……いや、少女だ」

「説明になっておりません!」


 デインがさらに語気を強める。


「そのような曖昧な理由では、屋敷の誰も納得いたしませんし、受け入れることも叶いません。せめて一部始終を、包み隠さずお話しください」


 アルフォンス様は、困ったようにこめかみを指先で掻く。


「一部始終も何も、本当にそれだけなのだ。……この緑の瞳に射抜かれた、それが唯一にして最大の理由だよ」


 今度は、先ほどまでの冗談めかした雰囲気は消え、彼の声に真剣な響きが混じった。


「彼女と目が合った瞬間、この瞳の奥をもっと深く覗き込みたいという、抑えがたい欲望が芽生えたんだ。今の私にも、その衝動をどう解釈すべきか分かってはいない。だが、この得体の知れない胸のざわめきを、そのまま逃すわけにはいかなかった。彼女を近くに置く必要があったんだ。……わかってくれるか、デイン」


「…………」


 デインは眉間に深い皺を刻んだまま沈黙した。

 全く理解できない、という表情ではあったが、アルフォンス様のあまりに真摯な態度に、何らかの揺るぎない決意を読み取ったのだろう。


 長い沈黙の末、彼は深く、重い溜息を吐いて頷いた。

 すると、すかさずロゼッタが異議を唱える。


「デイン、本気ですか? このような素性も知れぬ子を、屋敷に入れるつもりなの?」

「仕方なかろう。旦那様がこれほどまでに固執されるのだ」

「ですが……」

「ロゼッタ、君も分かっているはずだ。一度こうして、理屈を超えた確信を口にされた旦那様を止められる者が、この屋敷に一人でもいるか?」


 デインの言葉に、ロゼッタも唇を噛んで黙り込む。

 その険しかった表情は、諦念に近いものへと変わっていく。


 二人がいかに長い間、アルフォンス様の我が儘に振り回され、彼を支えてきたのかが窺い知れる光景だった。


 しかし、年長者二人が妥協を見せた一方で、若いメイドたちの瞳に宿る不穏な熱は、一向に収まる気配がなかった。


「……承知いたしました」


 ロゼッタが私の方を見やり、冷たく告げる。


「客室に泊めるわけにはまいりませんし、メイド棟が満室なのも事実です。ゆえに、この子には他のメイドとの相部屋で我慢していただきます。それでよろしいですね、アルフォンス様」


 するとアルフォンス様が渋面を作り、私を見つめる。


「エルナ……君は、それで構わないかい?」


 私は迷うことなく、即座に答えた。


「申し分ないです。屋根のある場所で休ませていただけるだけで、感謝に堪えません」


 正直なところ、野宿を命じられたとしても、あるいは納屋の隅に放り込まれたとしても、今の私には過分な待遇に思えたのだ。


 けれど、ふと一つの懸念が脳裏をよぎる。


「ですが……同室となる方に、これ以上のご迷惑をおかけしたくはありません。やはり、お気持ちだけを頂いて、私は元の場所へ戻るべきだと……」


 私がそう口にした瞬間、アルフォンス様の余裕に満ちた表情が劇的に一変した。


「それはダメだ!」

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