第6話

 元の場所へ戻らなければならないと考えると、暗澹たる気持ちに包まれる。


 先ほどの大騒動は、決して冗談では済まされない。

 屋敷に戻れば、待っているのは地獄のような糾弾か、あるいは集団リンチにも等しい仕打ちだろう。


 甘い夢はここで終わり。

 私は意を決して、現実に立ち戻るための言葉を絞り出した。


「……恐れ入ります。これ以上、お付き合いすることはできません。そろそろ、帰らなくては」

「許可できないな」


 アルフォンス様の、きっぱりとした拒絶。


「私が言うのもなんだが……君にはもう、帰れる場所などないはずだろう?」


 図星。

 沈黙でそれを肯定するしかない私に、彼は事も無げに告げる。


「我が家に来るといい」


 私は驚き、伏せていた顔を上げた。


 このお方は何を仰っているのだろう。

 困惑する私を余所に、彼は言葉を継ぐ。


「その瞳がいかなる魔力を秘めているのか。君の色が私の心に混じり合い、どのような反応を引き起こしているのか……それを研究する必要がある。一日一時間はその瞳を覗き込む時間が必要だ。だから、これから我が家で暮らせ。私のメイドとして働くんだ」

「い、いきなり何を……。そんなこと、できるはずがありません」

「なぜだ? 手続きの類はすべて私が処理する。法的な問題は何一つないはずだ。君は今の雇い主の所有物ではない。自由な平民の身分だろう?」

「それは、そうですが……あまりに突拍子もないお話です」

「唐突さで言えば、先ほどの舞踏会ですでに耐性はついているはずだ。それに比べれば、奉公先の変更など些細なことだろう。……何より、この事態を招いたのは私だ。ならば、責任は私が取るべきだ」


 確かに彼が仰る通り、今の私には他に選択肢などないのかもしれない。

 けれど――。


「これ以上、侯爵閣下にご迷惑をおかけするわけには……」

「君は何を言っているんだ」


 アルフォンス様が、呆れたように私の言葉を訂正する。


「迷惑をかけたのは、全面的に私の方だ。非はすべて私にある。君が申し訳なさそうな顔をする必要などない。むしろ私に対して怒り狂うべき場面だろう?」

「と、とんでもございません! 閣下に対して怒りを感じるなど、そのようなこと……」

「ならば、もういいだろう。私の提案に従ってくれるか? いや、従ってほしい」


 わずかに強引さを滲ませた表情を浮かべた後、彼はふっと憑き物が落ちたような、どこまでも率直な眼差しになった。


「君の心に、素直になればいい。……私は、君の答えに従うよ。どうしたい?」


 私は、自分の心の奥底を覗き込んだ。答えは驚くほどあっさりと見つかった。


「……侯爵閣下のもとで、働かせてください」


 そう答えた瞬間、アルフォンス様の表情から、安堵のあまり血の気が引くような――まるで張り詰めていた緊張が瓦解したかのような、脆いまでの安らぎが溢れ出した。


 彼はすぐに平静を取り戻し、優しく微笑んだ。


「では、雇用契約成立だ。よろしく頼むよ、エルナ」


 不意に名を呼ばれ、胸の鼓動が跳ねる。

 若い殿方に名を呼ばれる経験など久しくなかったし、ましてやこれほど高貴で美しい殿方からとなれば、陶酔にも似た感覚が全身を駆け巡る。


「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「では早速だが、最初の指示を出そう」

「はい、何でしょうか」


 居住まいを正す私を見て、彼は小さく破顔した。


「呼び方だ。侯爵だの閣下だの、その肩苦しい呼び方はやめてほしい。仕事場にいるような気分になって、リラックスできないからね」

「では……どのようにお呼びすれば?」

「普通に、名で呼んでくれればいい」

「……では、アルフォンス様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」

「ああ、それでお願いしたい。私も君を、エルナと呼んでいいかな?」

「それはもちろん……アルフォンス様の仰せのままに」

「決まりだね」


 アルフォンス様は満足げに頷き、再び歩き出した。


「このまま、歩いて私の邸へ向かおう。少々距離があるが、大丈夫かな? 馬車を待たせている場所まで戻るよりは、このまま歩く方が早い距離まで来てしまった。……足は痛くないかい?」


 彼が私の足元に視線を落とした。

 仕事用の、薄汚れて擦り切れた不格好な靴。

 それを見られるのがひどく恥ずかしくて、私は少しだけ足をすくめた。


「……全然、平気です」

「そうか。では、ゆっくりと歩こう」


 私たちは夜空の下、穏やかな沈黙を分かち合いながら歩き続けた。


 繋がれた手の温もりを唯一の道標(しるべ)として、私は彼と共に、新たな運命が待つ邸宅へとたどり着くのだった。

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