第2話:サキュバス、吸収不能
魔界の精鋭、見習いサキュバスのルシアにとって、人間の生命エネルギーを啜るなど、ストローでジュースを飲むのと同義のはずだった。
(な、なんなのよ……これ、一体どうなってるの……!?)
ルシアは、健二の胸に押し当てた自分の手のひらを見つめ、戦慄した。
通常、サキュバスが本気で「吸引」を開始すれば、人間の精気は輝く燐光となって吸い出され、ものの数分で対象はミイラのような干物へと変わり果てる。それが摂理であり、弱肉強食の絶対原則だ。
しかし、目の前の男――佐藤健二は違った。
ルシアが魔力を全開にして吸い上げているにもかかわらず、健二の胸の奥から溢れ出すエネルギーは、一向に枯れる気配を見せない。どころか、吸引の刺激に呼応するように、その「熱」はさらに膨れ上がり、ルシアの腕を伝って彼女自身の体内へと逆流し始めていた。
「はっ、ぁ……く、苦しい……なに、これ……熱すぎ、る……っ!」
ルシアの喉から、獲物を狩る者にあるまじき、喘ぎに近い悲鳴が漏れた。
今までの男たちは、皆一様に空っぽだった。
酒、女、金、承認欲求。日常の中で少しずつ精気を切り売りし、中身がスカスカになった「出し殻」ばかり。そんな連中は、ルシアが少し指先で触れるだけで、あっけなく霧散していった。
だが、こいつは違う。
彼は誰にも見向きされず、誰にも何も与えられなかった。
同時に、彼は誰にも自分の「心」を差し出さなかった。
二十九年間、社会の片隅で、ただひたすらに自分の内側へ溜め込み、熟成させ、圧縮し続けた純度百パーセントの孤独――。それは皮肉にも、魔界の王ですら持ち得ないほどの、巨大な高純度エネルギーの結晶体と化していたのだ。
「おい、夢のサキュバスさん……。そんなに苦しそうな顔して、どうしたんだよ」
健二が、ぼんやりとした目でルシアを見上げた。
彼はまだ、これを現実だと思っていない。あまりにリアルな、しかし都合の良すぎる白昼夢だと思い込んでいる。
「そんなに俺のが欲しいなら、遠慮すんなよ。どうせ、俺なんて誰にも必要とされてないんだ。……欲しがってくれるのが夢の中の怪物だけだとしても、使い道のないこの命で、あんたが満足するなら……全部持ってけよ」
「っ……!」
ルシアは息を呑んだ。
健二の言葉は、自虐と諦念に満ちている。
「欲しいと思ったことすら、全部諦めてきた」
――その静かな絶望が、リミッターを外した。
彼の中に澱んでいた膨大な精気が、ルシアという「受け皿」を見つけたことで、決壊したダムのように一気に流れ込んできたのだ。
「あ、あああああっ……!? ま、待って、もう入らな……っ! お腹いっぱいなの……壊れちゃう、私の方が壊れちゃうぅ!!」
立場は、完全に逆転していた。
ルシアの白い肌は、健二から流れ込む過剰な生命力のせいで、内側から発光するかのように赤らんでいる。
吸収しているのではない。注ぎ込まれているのだ。
暴力的なまでの「生」の奔流。
ルシアは健二の胸に押し当てた手を離そうとしたが、指先が磁石のように吸い付いて離れない。
(この男……誰にも奪われていない。一度も、誰にも触れられていないから……こんなに、こんなに濃いのが残ってる……!)
ルシアの脳裏を過ったのは、獲物を仕留めたという達成感ではなく、巨大な神殿の前に膝を突いたかのような、抗いようのない「敗北感」だった。
吸い尽くして殺すはずの獲物。
しかし今、ルシアは健二の腕の中に抱かれ、彼から溢れる温もりに、心まで溶かされそうになっていた。
サキュバスの誇りも、初任務の緊張も、すべてがその熱量の中に蒸発していく。
「あ……ぁ……っ」
ルシアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは苦痛ゆえか、あるいは、生まれて初めて「自分を真っ向から受け止めてくれる巨大な存在」に触れた歓喜ゆえか。
ルシアは、自分が「吸う側」であることすら、忘却の彼方へと追い詰められていた。
彼女は震える手で、健二の寝巻きの襟元を掴んだ。
それは獲物を逃がさないための拘束ではなく、荒波の中で唯一のしがみつける岩礁を求めるような、必死のしがみつきだった。
「……あな、た……貴方は、一体、なんなの……?」
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