「誰も困らないゴミ」を選んだはずのサキュバスが、人類最強の「未使用者」を引いてしまった話

Omote裏misatO

第1話:誰にも選ばれなかった俺は、魔界で一番危険な供物だった

 都心の喧騒から取り残されたような、築四十年の木造アパート。その一室、湿った畳の匂いと、PCファンの微かな排気音だけが支配する空間。

 それが、佐藤健二(二十九歳)の全領域だった。


​「……はぁ。また、これか」


 ​健二は、青白いモニターの光に照らされながら、無機質な呟きを漏らした。

 画面には、SNSのタイムライン。流れてくるのは、見ず知らずの誰かの贅沢な食事や、煌びやかな夜景。そして、それらに群がる無数の「いいね」だ。

 佐藤がそこに一言、「腹減った」と投稿しても、反応はゼロ。唯一つく通知は、怪しげな副業勧誘か、AIが生成した露出度の高いエロ広告のbotだけ。

 ​​職場でも、彼は「透明人間」ですらなかった。透明人間は「そこにいるが透けている」状態だが、健二はもはや「背景」の一部、あるいは古びたオフィス什器と同じ扱いだった。


​「……あれ。ここ、誰かシュレッダーかけてくれる人、いないの?」


 ​目の前に、健二がいる。

 しかし、資料を抱えた上司の視線は、健二の鼻先数センチを通り越して、背後の壁を虚ろに彷徨っている。


​「……あの、部長。僕がやりますけど」


 ​健二が手を伸ばしかけるが、部長はその声を認識すらしていない。


​「なんだ、誰もいないのか。最近の若手は気が利かないな……。おい、誰か! ここにある資料、暇な時にシュレッダーしておいてくれ。適当な棚に置いとくぞ」


 ​部長は、健二が座っているデスクの端に、あろうことか健二の手の上に被せるようにして資料の束をドサリと置いた。

 健二の体温も、存在も、そこに流れる時間も、誰の意識にも触れない。

 ​成果を上げれば「いつの間にか終わっていた幸運」として処理され、ミスがあれば「どこからか紛れ込んだ不具合」として彼のせいにされる。怒鳴られることすらなくなった。怒声とは、相手を人間として認識していなければ発せられないエネルギーだからだ。

 ​最近では、同僚が彼の座る椅子を「空席」だと思い込み、カバンを置こうとして健二にぶつかり、「……おっと、なんだ? 建付けが悪いのか、この椅子」と独り言をこぼして去っていくことすらあった。

​(ああ……俺、本当に死んでるのと変わんねえな)

 ​健二は、自分の上に積み上げられた資料を黙々とシュレッダーにかけ始めた。

 自分という人間が、この紙屑のように細切れにされて消えてしまっても、この部屋の酸素濃度すら変わらないだろう。そんな確信だけが、彼の胸に澱のように溜まっていた。


​「彼女……? 異世界の期間限定イベントだろ、それ。セックスなんて、ツチノコとかUFOの類だ。俺の人生には実装されてねえんだよ」

​ 健二は力なく笑い、万年床に体を投げ出した。

 カレンダーに目を向ければ、あと数ヶ月で三十歳の誕生日がやってくる。

「……俺もいよいよ『魔法使い』に昇格か。笑えねえな」

 ネットの冗談では、三十歳まで童貞を守れば魔法使いになれるなんて言われているが、現実に手に入るのは、輝かしい魔力ではなく、ただの取り返しのつかない喪失感と孤独だけだ。

​ 彼にとって、世界は「自分抜き」で回っている。

 誰からも期待されず、誰からも必要とされない。自分が明日死んだところで、アパートの管理人が家賃の滞納を不審に思うまで、数ヶ月は誰にも気づかれないだろう。

 彼は薄暗い天井を見つめたまま、深い泥のような眠りに落ちていった。

 ​一方その頃、次元の裂け目を超えた「魔界」の深淵。

 毒々しい紫の月が照らす大広間で、見習いサキュバスのリリスは、己の初任務を前に唇を舐めていた。


​「いい、ルシア。我らサキュバスにとって、人間の生命エネルギー(精気)は最高の良薬であり、通貨よ」


 ​冷徹な上司サキュバスが、扇子でルシアの顎を持ち上げる。


「だが、騒ぎを起こすのは三流。狙うべきは『社会的な死体』。孤独で、友人もおらず、消えたところで誰も捜索願を出さないような――透明なゴミを選びなさい。それが、一人前のサキュバスへの第一歩よ」

​「もちろん、分かってるわ。お姉様。……フフ、ぴったりの獲物を既に見付けてあるから♡」


​ ルシアが水晶に映し出したのは、安アパートで無防備に眠る健二の姿だった。


「見て、この死んだ魚のような目。この空っぽな魂。これなら、一滴残らず吸い尽くしても、人間界は何一つ変わらないわ」

 ルシアは黒い霧に包まれ、次元を跳躍した。

 ​午前二時。健二の部屋に、甘く、刺すような香りが立ち込めた。

 パチリ、と空間が爆ぜるような音と共に、一人の「暴力的な美」が現れる。

 ​背中には蝙蝠(コウモリ)のような小さな翼。頭上には艶やかな角。

そして、布面積が絶望的に少ない黒のマイクロビキニ。そこから溢れんばかりの爆乳と、しなやかな曲線を描く肢体は、童貞の妄想を煮詰めて具現化したような、究極のグラマラスボディだった。


​「……ふぅん。本当に、救いようのない部屋。でも、その絶望がスパイスになるのよね」


 ルシアは眠る健二の胸元に跨った。

 重みで目が覚めたのか、健二がうっすらと瞼を持ち上げる。


​「……ん、え? ……あぁ、なんだ。またエロい夢か。今日は随分と、質感がリアルだな……」

「夢? クスクス、いいえ。これは貴方にとって、人生最後のご褒美よ、人間」


​ ルシアは健二の頬を冷たい指先で撫でた。


​「誰にも愛されず、誰にも見向きされなかった可哀想な人。その無価値な命、私が美味しく頂いてあげる。感謝して、空っぽになって死になさい」


​ ルシアの瞳に宿る、本物の捕食者の輝き。

 本来なら、ここで恐怖に震え、命乞いをするのが人間の本能だ。だが、健二の心に湧き上がったのは、恐怖を通り越した圧倒的な「安堵」だった。

​(……ああ、やっとか。やっと、誰かが俺を見つけてくれたんだな)

​ それがたとえ命を奪いに来た悪魔であっても、この三十年間、自分をこれほどまでに真っ直ぐ、熱心に見つめた存在はいなかった。

 明日もまた、誰にも認識されずにシュレッダーのゴミを片付けるだけの朝が来る。そんな、生きたまま腐っていくような日々を延々と繰り返すくらいなら、この美しすぎる絶望に抱かれて消えたほうが、よほど「人間らしい最期」に思えた。


​「……好きにしろよ。どうせ、俺の中には、何もねえよ。……最後にこんな綺麗な夢が見れるなら、悪くない」

​「ええ、そうでしょうね。さあ、いただきまーす!」

​ ルシアは陶酔した表情で、健二の胸の中央に手のひらを押し当てた。

 サキュバスの秘技。魂の根源、生命エネルギーの強制吸収。

 通常、この段階で人間は白目を剥き、数秒で全身の水分が抜けたミイラのようになる。

 ​ルシアは、極上の快楽が流れ込んでくるのを待ち構えた。

……しかし。


​「……え?」


 ​リリスの眉がピクリと動いた。

 吸っている。確かに、全力で吸い上げている。

 だが、手応えが、おかしい。

 ​普通、精気を吸い始めると、相手の生命の灯火はみるみると弱まっていく。コップの水をストローで吸うように、明確な「終わりの予感」があるはずなのだ。

 ​だが、この男はどうだ。

 吸っても、吸っても、吸っても――。

 健二の体内に渦巻くエネルギーは、減るどころか、むしろ吸引の刺激を受けて活性化し、より強固に、より熱く、うねりを上げ始めている。

​(な、なんなのよ、これ……!? 減らない……それどころか、逆に私の魔力が持っていかれそうになるくらい、エネルギーの『圧』が強すぎる!?)


​「おい……まだか? 夢なら、もうちょっとマシな展開にしてくれよ」


 ​健二が、眠たげに、しかしはっきりとそう告げた。

 その瞬間、リリスの背中に冷たい汗が流れた。

 ​彼女が選んだのは「空っぽ」の男ではなかった。

 二十九年間、誰にも愛されず、誰とも繋がらず、誰にも使われることなく、ただひたすらに自身の内側へ蓄積され、圧縮され、濃縮され続けた――。

 一度も蓋を開けられたことのない、超高純度の「未使用(バージン)エネルギー」の巨大な貯蔵庫だったのだ。


​「……っ!? ……ふあ、っ、あ、熱いっ……!? なに、これ……っ!!」


 ​リリスの顔が、恐怖と、そして未知の衝撃による「悦び」で真っ赤に染まっていく。

 奪う側であったはずの彼女が、今、男から溢れ出す無尽蔵の熱に、飲み込まれようとしていた。

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