第五話 孤独の要塞と「選別」②
「佐藤健一」という名は、あの鉄壁の城壁の中に置いてきた。
今、夜の銀座の路地裏、重厚な真鍮のドアの先に広がる会員制バーにおいて、僕は「工藤」という男だ。投資で財を成した、素性不明の青年実業家。それが僕がこの社交場で纏っている剥製のような仮面だった。
店内は、バカラのグラスが氷と触れ合う繊細な音と、低く流れるジャズ、そして上質な葉巻の香りに満ちていた。
カウンターに座り、三万円のシングルモルトを口に含む。琥珀色の液体は喉を焼くが、心までは暖めてはくれない。
「工藤さん、またお会いしましたね」
隣に座った男が、品の良い、だがどこか爬虫類を思わせる冷ややかな笑みを浮かべて声をかけてきた。
不動産会社の経営者を名乗る、五十代半ばの男だ。彼の腕に巻かれたパテック・フィリップが、控えめな照明の下で鈍い光を放っている。
「どうです。例の港区の物件。手放すなら今が最高値ですよ。下々の連中が必死にローンを組んで買いたがっている間に、我々は利鞘を抜く。それがこの世の理(ことわり)だ」
男は楽しそうに、自らの成功がいかに他者の「搾取」の上に成り立っているかを語り始めた。
周囲を見渡せば、似たような男たちと、彼らにしなだれかかる装飾品のような女たちが、優雅な仕草で「持たざる者」への蔑視を共有していた。
話題は常に、誰がどれだけ稼いだか、あるいは誰がどれだけ無様に没落したか。
彼らにとって、人間とは「利用価値のある数字」か、「踏み台にするための石ころ」のどちらかでしかなかった。
「結局、金なんですよ。金さえあれば、法も心も、女の貞操だって思いのままに買える。工藤さんも、そう思われませんか?」
男がグラスを掲げる。僕はそれに合わせながら、激しい既視感に襲われていた。
この男の瞳の奥にある光。それは、僕の金を狙って寄ってきた直樹や課長、美咲の両親と、本質的には同じものだった。
違うのは、彼らには僕の金を奪う必要がないということだけだ。彼らは、自分たちが「奪う側」の人間であることを確認するために、この閉ざされた空間で互いの虚栄心を舐め合っているに過ぎない。
(ここも、同じ地獄だ)
タワマンの下に蠢く、剥き出しの強欲にまみれた地獄。
そしてこのバーに漂う、洗練された冷酷さに満ちた地獄。
どちらも、僕という「人間」を見てはいない。彼らが敬意を払っているのは僕の纏う「工藤」という偽装であり、その背景にある架空の資産規模だ。
「……そうですね。金こそが唯一の正義だ。そう思いますよ」
僕は自分の声が、驚くほど冷酷に響くのを聞いた。
男は満足げに頷き、再び下等な連中をいかにして「教育(しぼりと)る」かという持論を語り始めた。
僕はグラスに残った酒を飲み干し、チェックを頼んだ。
偽名を使っても、どれほど高い酒を浴びても、僕の孤独は薄まるどころか、より尖鋭化していく。
結局、世界には二種類の人間しかいない。
金を持っていない亡者か、金を持って心が死んだ亡者か。
僕は後者の王として、再び一人、あの冷たい城壁へと帰るしかなかった。
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