第五話 孤独の要塞と「選別」③

 世界から色が消え、代わりにすべてのものに「値札」が見えるようになった。


 タワーマンションの一階にある、清潔感だけが取り柄のコンビニエンスストア。

 深夜、喉の渇きを覚えて立ち寄った僕は、レジに立つ若い店員の愛想の良い笑顔にさえ、言いようのない嫌悪感を覚えていた。


​「いらっしゃいませ! お預かりします」


​ 店員が丁寧に商品をスキャンし、袋に詰める。そのきびきびとした動作、マニュアル通りの完璧な挨拶。

 かつての僕なら「感じの良い店員だな」と流していただろう。だが今の僕には、彼のその「善意」が、僕の財布をこじ開けるための卑しい演技にしか見えなかった。

 

(こいつは、僕を客だと思っているんじゃない。チップを弾ませるかもしれないカモだと思っている)


​ 実際には、コンビニでチップなど渡すはずがない。

 それでも、彼の過剰な丁寧さは、僕が「持てる者」であることを見透かした上での、小銭への執着に見えてしまう。


 僕は一言も発さず、自動精算機に紙幣を叩き込み、お釣りを受け取らずに店を出た。背後から聞こえた「ありがとうございました!」という声が、空々しい嘲笑のように夜の空気に響いた。


​ 移動のために呼び止めたタクシーの中でも、僕の神経は逆毛立っていた。

 バックミラー越しに、運転手の老人がこちらの様子を伺っている。


「お客さん、いい時計してますね。お仕事、順調なんですな」


 何気ない世間話。だが、その言葉が僕の鼓膜に届く頃には、どす黒い計算高い毒に変わっている。


​「……黙って運転してくれませんか」


​ 冷たく言い放つと、車内の空気は一瞬で氷結した。老人の肩がわずかに震える。

 その背中を見つめながら、僕は思う。

 この男も、あわよくば遠回りをして運賃を稼ごうとしているのではないか。あるいは、僕の身なりを見て、降車時に「お釣りはいりません」という言葉を期待しているのではないか。


​ 誰一人として信じられない。


 通りすがりの見知らぬ他人の、わずかな会釈。

 マンションのコンシェルジュが捧げる、深々とした礼。

 それらすべてが、僕の「十億円」という肉を狙う亡者たちの、洗練された「集金活動」に思えてならない。


​ 人間不信は、もはや精神の深淵まで侵食していた。


 他人の肌が触れること、吐息を感じることすら耐え難い。エレベーターに誰かが乗り込もうとすれば、舌打ちを堪えながら閉扉ボタンを連打する。

 他者の存在そのものが、僕の聖域を汚すノイズであり、脅威だった。


​ 部屋に戻り、アルコール除菌液を手にすり込む。

 何度洗っても、外の世界で浴びた「欲望の視線」が肌にこびりついているようで、吐き気が止まらなかった。

 僕は窓の外を見下ろす。煌びやかな夜景。その光の一粒一粒が、金を求めて這いずり回る虫たちの眼光に見える。


​「……触るな。僕を見るな」


​ 僕は一人、広いリビングで膝を抱えた。


 金は僕を守る城壁を作ったが、同時に僕を、誰にも触れられない孤独な「怪物」へと作り変えていた。

 愛も、信頼も、慈悲も。すべては金で買える安っぽい消耗品に過ぎない。

 だとしたら、僕がこの世界と繋がる方法は、もう「支配」の他に残されていなかった。

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地獄の沙汰も金次第 @CITRON371580

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