第四話 亡者たちの行進③
駅裏にある、一泊五千円の安ビジネスホテル。
壁は薄く、隣の部屋のテレビの音や、廊下を歩く誰かの足音が絶え間なく響いてくる。空調からは埃っぽい風が吹き出し、窓の外には錆びついた非常階段と、灰色のビル群が切り取られていた。
僕は今、この狭苦しいシングルルームに身を隠している。
十億円という、この国の平均的な生涯年収の数倍もの大金を持ちながら、僕が求めたのは、誰にも見つからないための「穴ぐら」だった。
デスクの上に置かれたコンビニのパン。ぬるくなったペットボトルの茶。かつての僕なら、これが日常だった。しかし今の僕にとっては、これが唯一の安全地帯だった。
僕は、鏡の中に映る自分を見つめる。
無精髭が伸び、目の下には深い隈がある。かつて、理不尽な上司に耐え、美咲とのささやかな未来を夢見ていた「佐藤健一」は、もうどこにもいなかった。
家族。友人。同僚。恋人。
この数週間の間に、僕の人生からそれらのピースは一つ残らず剥がれ落ちた。
彼らが愛していたのは、僕という人格ではなかった。僕が偶然手にした、銀行口座に並ぶ「十個のゼロ」という記号だったのだ。
もし僕が明日、この金をすべて失ったら?
母さんは再び「恩」を説くだろうか。
直樹は僕の「将来」を心配して連絡してくるだろうか。
美咲は僕の隣で笑ってくれるだろうか。
答えは、暗闇よりも明白だった。彼らは蜘蛛の子を散らすように去り、二度と僕の名を呼ぶことはないだろう。
「……誰も、僕を見ていないんだ」
言葉にすると、乾いた笑いがこみ上げてきた。
世界は、金というフィルターを通さなければ、僕という個体すら認識できないらしい。
佐藤健一という人間は死んだのだ。今ここに存在しているのは、十億円という意志を持った「数字」の器に過ぎない。
だとしたら。
僕も、彼らを人間として見るのをやめよう。
道徳、倫理、情愛、信頼。そんなものは、金を持たない弱者が、強者から身を守るために捏造した幻想に過ぎない。
この世に存在するのは、金を与える支配者と、それに跪く亡者。ただそれだけだ。
僕はベッドに倒れ込み、天井の染みを見つめた。
心が、驚くほど静かに、そして冷たく凪いでいくのを感じた。
もう、誰に嫌われることを恐れる必要もない。誰かの善意を疑って傷つく必要もない。
僕を「数字」としてしか見ない世界なら、僕も世界を「数字」で支配してやればいい。
地獄の沙汰も金次第。
ならば、その地獄で最も高い玉座に座るのは僕だ。
僕は目を閉じ、暗闇の中で自分の中の「人間性」という最後の不要品を、ゴミ箱に放り出すようにして捨て去った。
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