第四話 亡者たちの行進

第四話 亡者たちの行進①

​ 会社を辞め、逃げるようにアパートに戻ってから三日が過ぎた。


 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、僕はただ泥のように眠り、目が覚めればコンビニの冷めた弁当を口に運ぶだけの廃人のような生活を送っていた。

 外の世界と僕を繋ぐ唯一の細い糸はスマートフォンの画面だったが、そこから流れ込んでくるのは、僕の「十億円」という肉を食らおうとする亡者たちの羽音ばかりだった。


​ 不意に、枕元でスマホが震えた。

 画面に表示された「母さん」という二文字を見た瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。


 これまで数ヶ月に一度、思い出したように「元気か?」と短い電話をくれるだけの、平穏で少し距離のある関係。

 それが今の僕には、神崎が警告していた「最大の請求書」に見えて仕方がなかった。


​ 迷った末、僕は通話ボタンをスライドさせた。


​「……もしもし、母さん?」

『あ、健一? 起きてた?』


 母の声は、驚くほど明るく、そして弾んでいた。その不自然なトーンに、僕は奥歯を噛み締めた。


『聞いたわよ! あんた、大変なことになってるんですってね。美咲ちゃんのご両親から連絡があったのよ、「おめでとうございます」って』


​ 胃の奥から黒い泥がせり上がってくるような不快感を覚えた。あの家族だ。

 僕に絶縁された腹いせか、あるいは僕の親を抱き込んで包囲網を敷くつもりか。


『ねえ、健一。あんた、そんなに大金を持ってるなら、どうして真っ先に相談してくれなかったの。お父さんも私も、腰が抜けちゃったわよ』


​「……母さん、あの金は僕の人生を壊すためのものなんだ。だから、静かにしておいてほしいんだよ」


『何を言ってるの、縁起でもない。いい?

 ちょうど良かったのよ。実家の屋根ももうボロボロだし、お父さんの退職金だけじゃ将来が不安だったの。

 それにね、あんたの従兄弟の正夫くん、覚えてる? ほら、事業に失敗して借金があるって言ってた……』


​ 次から次へと溢れ出す、知らない誰かの「不幸」と「入用」。

 母の口から語られる言葉は、僕を案ずる親心ではなく、ただの「送金リスト」の読み上げだった。


 屋根の葺き替えに三百万。老後の蓄えに三千万。正夫くんの借金肩代わりに一千万。

 聞いたこともない遠縁の叔父が心臓を悪くした。親戚の娘が留学したがっている。


 血の繋がり。かつて僕を温かく包んでいたはずのその概念が、今は僕の喉元に突きつけられた鋭利なナイフへと変貌していた。


​「母さん、もういい。もう聞きたくない」


『健一、冷たいこと言わないで。あんた一人で十億なんて使い切れるわけないじゃない。身内が困っている時に助け合うのが家族でしょ? 育ててもらった恩を――』


​「恩」という言葉が出た瞬間、僕は通話を切った。

 そのまま、電源を落とす。

 暗転した画面に、自分のひどく疲れ切った、幽霊のような顔が映り込んでいた。


​ 育ててもらった恩。確かにそれはあるだろう。

 けれど、彼らが求めているのは、僕という息子の幸せではなく、僕が偶然手にした「数字」の分け前なのだ。

 僕がどれだけ心を摩耗させ、周囲の人間すべてが化け物に見える恐怖に震えているか、彼らには関係ない。

 

 ただ、金があるから。


 その一点だけで、僕は彼らの所有物となり、搾取される対象へと成り下がった。

 血脈とは、愛を運ぶ管ではなく、僕の資産を吸い取るためのストローだったのだ。


​ 僕は膝を抱え、暗い部屋の隅で震えた。

 会社を捨て、恋人を捨て、今、家族さえも失った。

 手元に残ったのは、冷たい通帳の重みと、世界中で僕だけが狙われているという、狂気じみた孤独感だけだった。

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