第三話 綻びと情報の漏洩③

 胃の奥からせり上がる酸っぱい液体を飲み込み、僕は震える手でブリーフケースから一通の封筒を取り出した。

 真っ白な奉書紙。その中央に記された「辞職願」という三文字が、今の僕にとって唯一の救いであり、外界と自分を切り離すための「絶縁状」だった。


 フロアの空気は、相変わらず粘ついていた。僕が席を立つだけで、周囲のキーボードを叩く音が不自然に止まり、パーテーションの隙間から「十億円の塊」を覗き見るような視線が突き刺さる。

 僕は迷うことなく、課長のデスクへと歩を進めた。


「おや、佐藤くん。さっきの話、前向きに考えてくれたかな?」


 課長が、下卑た期待を隠そうともせずに顔を上げる。僕は何も言わず、そのデスクの上に白封筒を叩きつけた。

 パシッ、という乾いた音が、静まり返ったフロアに異様に響く。


「……辞めます。今、この瞬間を以て」

「なんだと?」


 課長の顔から余裕の笑みが消え、醜い困惑が広がった。


「佐藤、ふざけるなよ。一億の出資話はどうなるんだ。お前、この会社にどれだけ世話になったと思ってる! 社会人としての常識が――」

「常識、ですか」


 僕は彼の言葉を遮った。喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。


「僕を人間扱いせず、都合のいいサンドバッグにしていた時の『常識』はどこへ行ったんですか? 辞める会社の人間に、出資する馬鹿がどこにいますか」


 課長の顔が怒りで赤黒く染まり、周囲の同僚たちが一斉にざわついた。

 だが、もう怖くはなかった。彼らがどんなに怒鳴ろうが、僕の銀行口座にある「数字」の盾を突き崩すことはできない。


 僕は自分のデスクに戻ると、あらかじめ用意していた段ボール箱に、最低限の私物だけを詰め込み始めた。

 使い古されたマグカップ、機能性のない文房具、家族の写真――。

 昨日まで、僕の人生のすべてだったはずの遺物たちが、今はただのゴミに見える。

 箱を抱え、出口へと向かう僕の背中に、冷たい声が浴びせられた。


「勝手にしろよ、成金野郎が」


 誰かの吐き捨てるような声。それを合図に、フロア中から呪詛のような囁きが漏れ出した。


「どうせすぐ騙されて、一文無しになるのがオチだ」

「調子に乗ってられるのも今のうちだけだよ」


 誰も、僕のこれまで三年間を労う者はいなかった。一緒にプロジェクトを乗り越えた同僚も、愚痴を言い合った同期も、そこにはいなかった。

 ただ、分け前に預かれなかった腹いせを、憎悪に変えて吐き出す「亡者」たちの群れがいるだけだった。


 エレベーターホールに出る直前、一人の後輩が僕の前に立ちはだかった。

 僕がミスを庇ってやったこともある、大人しい男だ。彼は震える声で、だがはっきりと、僕の目を見てこう言った。


「佐藤さん。……金、残しとけよ。それしか、あんたにはもう何もないんだから」


 氷水を浴びせられたような衝撃だった。

 親愛でも、感謝でもない。剥き出しの皮肉と、隠しきれない軽蔑。

 僕は何も言い返せず、エレベーターに飛び込んだ。

 閉まる扉の隙間から見えたオフィスの風景は、ひどく色褪せて見えた。


 一階に降り、自動ドアを抜ける。ビジネス街の冬の風が、火照った頬を刺す。

 僕は自由になったはずだった。

 けれど、抱えた段ボールの重みは、まるで自分の棺を運んでいるかのように、どこまでも冷たく、孤独だった。

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