第二話 愛の値段③
深夜二時。
静寂が支配するはずのワンルームマンションに、衣類が擦れる微かな、しかし異質な音が染み出していた。
僕は眠ったふりをしたまま、瞼の裏側で神経を研ぎ澄ませていた。隣にいたはずの美咲の体温が消えてから、もう数分が経過している。
冬の冷たい月光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中に鋭利なナイフのような光の線を引いている。その青白い光の中に、這いずるような影が動いた。
カサリ、という音がした。
僕が枕の下に隠し、その上に頭を乗せて守っていたはずの、上着のポケットを探る音だ。
「……何してるんだ」
僕が声を落として呟くと、影が凍りついたように止まった。
ゆっくりと上体を起こす。暗がりに目が慣れてくると、そこには僕のジャケットを両手で握りしめ、獲物を盗もうとする泥棒そのものの姿をした美咲がいた。
彼女の目は驚愕に見開かれ、そして次の瞬間、隠しきれない後ろ暗さと、それを塗りつぶすような「執着」が混ざり合った、歪な色に染まった。
「あ、健一くん……違うの、これは……」
「違わないだろ。通帳を盗もうとした。そうだろ?」
「盗むなんて人聞きの悪いこと言わないでよ! 私たちは家族になるんでしょ? だったら、管理は私がしたほうがいいと思って……」
彼女の手は、まだ僕のジャケットを離さない。その指先が、布地を食い破らんばかりに強く握り込まれている。
僕は絶望を通り越し、ひどく冷めた心で彼女を眺めていた。つい数日前まで、この指先に触れるだけで心が温まったことが嘘のようだった。
今、目の前にいるのは僕が愛した女性ではない。十億円という巨大な磁場に引き寄せられ、自ら人間性をへし折った亡者の一人だ。
「返せ」
「嫌。健一くんは分かってないのよ。あのね、お父さんの借金、利子がすごいことになってるの。今すぐ払わないと、実家がなくなっちゃうんだよ? 十億もあるのに、どうしてそれを黙って見てられるの? 冷酷すぎるよ!」
「僕の金だ」
「私たちの金でしょ!」
美咲が叫んだ。その声は、かつての鈴を転がすような響きを失い、喉の奥から這い出してきたような、濁った獣の咆哮だった。
彼女はジャケットを奪い取ろうと、僕に向かって掴みかかってきた。長い爪が僕の腕をひっかき、鋭い痛みが走る。
揉み合う中で、彼女の顔が月光に照らされた。そこには、金への渇望で理性を焼き切られた、見知らぬ怪物の表情があった。
僕は彼女を突き放した。突き飛ばされた美咲は、床に尻餅をつき、乱れた髪の間から僕を呪うような視線で見上げた。
「……出ていけ」
「……え?」
「今すぐここから出ていけ。別れよう。二度と、僕の前に現れるな」
彼女は一瞬、呆然とした。まさか自分が捨てられるとは思っていなかったのだろう。
だが、すぐに彼女は嘲笑を浮かべた。
「いいの? 私を捨てたら、健一くんは本当に一人ぼっちだよ? お金だけ持って、誰からも愛されないで死んでいくんだよ? それでもいいの?」
「金があれば、愛なんていくらでも買える」
自分の口から出た言葉が、自分自身の耳を刺した。
嘘だ。そんなことは微塵も思っていない。けれど、今の僕には、そう言い切ることでしか自分を守る術がなかった。
僕は彼女の荷物をクローゼットから引っ張り出し、玄関の土間に投げ捨てた。
美咲は泣き叫び、ドアを叩き、僕の名を呼んだが、僕は一度も振り返らなかった。
ドアを閉め、三重に鍵をかけ、チェーンを引く。
静寂が戻った部屋で、僕は一人、床に座り込んだ。
右腕のひっかき傷から、赤い血が滲んでいる。
僕は震える手で、奪い返した通帳を開いた。
一、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇。
この数字を守るために、僕は世界で一番大切だった人を捨てた。
いや、金が、彼女を僕から奪ったのだ。
僕はスマートフォンのアドレス帳を開き、彼女の番号を削除し、着信拒否の設定をした。
暗闇の中で、僕は一人で声を殺して笑った。
十億円。
この紙切れがもたらした最初の戦果は、完璧な孤独だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます