第三話 綻びと情報の漏洩
第三話 綻びと情報の漏洩①
美咲を追い出してから数日。
僕の部屋は、かつてないほどの静寂と、それ以上に重苦しい「不在」の感覚に支配されていた。
一人で啜るカップ麺の湯気が、ひび割れた心に染みる。
スマホの画面は、彼女からの着信やメッセージを拒絶したまま沈黙を保っているが、その闇が深ければ深いほど、僕の胸にある十億円の「重み」は増していくようだった。
逃げ出したい。だが、どこへ?
僕はまだ、この安アパートに住み、いつものスーツを着て、いつもの時間に電車に乗る以外の生き方を知らなかった。
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週明け、重い足取りで会社へと向かった。
エレベーターを降り、オフィスの自動ドアが開いた瞬間。
僕は、肌に刺さるような「違和感」に襲われた。
いつもなら、キーボードを叩く乾いた音と、電話応対の騒がしい声が混ざり合うフロアだ。しかし、今日は違う。僕が一歩足を踏み入れた途端、波が引くように会話が止まったのだ。
パーテーション越しに、無数の視線が僕に突き刺さる。
それは、以前のような「無関心」でも「軽蔑」でもなかった。
もっと粘りつくような、湿り気を帯びた、そしてギラギラとした熱を持つ「品定め」の視線だった。
自分のデスクに向かう間、同僚たちがひそひそと何かを囁き合っているのが聞こえる。
「……マジらしいぜ」
「……十億だってさ。信じられるか?」
「……あの佐藤が? 何かの間違いじゃないの?」
心臓がドクンと大きく脈打った。
耳の奥が熱くなり、指先が冷たくなる。
(なぜ、知っている?)
秘密にしたはずだった。銀行は守秘義務がある。僕が話したのは美咲だけだ。
追い出された腹いせに、彼女がSNSに書き込んだのか。あるいは彼女の両親が周囲に言いふらしたのか。理由は分からない。だが、綻びはすでに、修復不可能なほど大きく広がっていた。
「おはよう、佐藤くん。今日はいい顔してるじゃないか」
不意に背後から声をかけられ、僕は肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには営業二課の田中が立っていた。普段、僕のことなど名前すらろくに呼ばず、通りすがりにお茶をこぼしても謝りもしないような男だ。
その田中が、今は気味の悪いほど満面の笑みを浮かべ、僕の肩を親しげに叩いている。
「宝くじ、当たったんだって? 水臭いなあ。同期の僕には教えてくれてもよかったのに」
「えっ、いや、それは……」
「いいっていいって。あ、今日のランチ、奢らせてよ。聞きたいことが山ほどあるんだ」
田中の瞳は笑っていなかった。
その奥にあるのは、獲物を見つけたハイエナの冷徹な計算だ。僕という人間を見ているのではない。僕の背後に透けて見える、札束の山を凝視している。
ふと視線を上げると、フロア中の人間が手を止め、こちらの様子を伺っていた。
事務の女性たち、他部署の先輩、いつも僕を怒鳴りつけていた上司の課長までもが、自席から立ち上がり、値踏みするような笑みを浮かべてこちらを見ている。
オフィス。
かつては、僕を疎外する退屈な檻だった場所。
それが今は、空腹の亡者たちが蠢く、逃げ場のない「巣窟」へと変貌していた。
僕は震える手でマウスを握り、パソコンの画面を見つめた。
だが、文字は全く頭に入ってこない。
背後から、横から、斜め後ろから。
目に見えない無数の手が、僕の服を、僕の資産を、僕の魂を剥ぎ取ろうと伸ばされているような気がして、吐き気がした。
神崎の言葉が、呪いのように蘇る。
『今日この瞬間から、佐藤様の周囲には、驚くほど多くの不幸な人々が現れます』
違う。ここにいるのは不幸な人々じゃない。
僕を喰い散らかそうと手ぐすね引いて待っている、強欲な獣たちだ。
僕はまだ辞表を出していなかったが、この瞬間、自分がもう二度とこの場所には戻れないことを悟った。
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