第二話 愛の値段②
週末の午前中、僕は美咲に連れられて、湾岸エリアに聳え立つ超高層マンションのモデルルームを訪れていた。
僕が同意した覚えはない。彼女は「今後の参考にするだけだから」と屈託のない笑顔で言い、僕の腕を引いた。全面ガラス張りのラウンジからは、東京湾の鈍く光る海面が、まるですべてを手に入れた者の箱庭のように広がっている。
「見て、健一くん! この最上階、三億五千万だって。十億あるなら、安いものだよね」
美咲の声は、モデルルームに漂う高級なアロマの香りに混じって、僕の耳を不快に撫でた。
三億五千万。僕が一生かけても、以前の給料なら五回は生まれ変わらなければ届かない金額だ。それを彼女は、まるでおやつを選ぶような軽やかさで口にする。
営業担当の男は、僕たちの身なりを値踏みするように一瞥した後、美咲がチラつかせた高級ブランドのカタログ(これも彼女が勝手に買ったものだ)を見ると、すぐに揉み手をして「特別なお客様」として扱い始めた。
その豹変ぶりに、僕は胃の奥がせり上がるような不快感を覚えた。神崎の言った通りだ。誰も僕を見ていない。僕の背後にある、あの数字の山だけを拝んでいる。
内見を終えた後、彼女に促されるまま向かったのは、マンションの一階にある会員制の和食店だった。
案内された個室の扉を開けた瞬間、僕は立ちすくんだ。
そこには、美咲の両親が座っていたからだ。
「……健一くん、久しぶりだね」
美咲の父親が、卑屈な笑みを浮かべて立ち上がった。かつて挨拶に行った時、僕の学歴や会社を品定めするように眺めていた厳格な面影は、そこにはなかった。ただ、金の匂いを嗅ぎつけた飢えた獣の、浅ましさだけが張り付いている。
テーブルには、既に僕が頼んだ覚えのない最高級のコース料理が並べられていた。
「健一くん、聞いたわよ。大変な幸運を掴んだんですってね。美咲から聞いて、私もう、腰が抜けるほど驚いちゃって」
美咲の母親が、脂ぎった顔で話し始める。彼女の指には、以前はなかったはずの派手な指輪が輝いていた。
食事の間中、語られたのは「家族の苦境」だった。父親の事業の失敗で作った数千万の借金。親戚の通院費。古くなった実家の修繕。
美咲は隣で、甲斐甲斐しく両親に酒を注ぎながら、さも当然のように僕に微笑みかけた。
「ねえ、健一くん。私たち、もうすぐ家族になるんだよね? だったら、家族が困っているのを助けるのは当然でしょ? 健一くんにとっては、たったの数千万じゃない」
たったの、数千万。
その言葉が、冷たい氷の粒となって僕の背筋を伝い落ちた。
彼女たちの言う「善意」や「助け合い」という言葉が、鋭いメスのように僕の十億円を削り取ろうとしている。
彼女たちの瞳の奥にあるのは、僕への愛でも感謝でもない。降って湧いたあぶく銭を、いかにして自分の懐に流し込むかという、剥き出しの強欲だった。
僕が黙り込んでいると、美咲の父親が僕の手を握った。その手は湿っていて、不気味なほど温かかった。
「佐藤くん……いや、健一さん。君は賢い。この金は、一人で持っていても不幸を呼ぶだけだ。家族に分散して、正しく使うのが一番なんだよ」
その時、僕は確信した。
美咲は、この金を守るためのパートナーではない。
彼女は、僕という獲物を解体するために、実の親まで呼び寄せた最初の「亡者」なのだ。
刺身のトロが口の中で溶ける。だが、それは脂の乗った魚の味ではなく、誰かの怨念がこもった生肉を噛んでいるような、酷い味がした。
僕は彼女の笑顔を見つめながら、心の中で静かに、彼女を「信じるべきリスト」から削除した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます