第二話 愛の値段

第二話 愛の値段①

 その夜、僕は美咲をいつもの駅前のイタリアンに誘った。

 千五百円のパスタセットが贅沢に思える、学生の延長線上にあるようなカジュアルな店だ。チェック柄のテーブルクロスには、落としきれないソースの染みが小さく残っている。


 向かい合わせに座る美咲は、心なしか疲

れた顔をしていた。アパレルの販売員として一日中立ち仕事をし、客の身勝手なクレームにさらされてきた彼女。

 僕の知る彼女は、慎ましく、健気で、僕の薄給を気遣って「今日は割り勘にしよう」と笑ってくれる、世界で唯一信じられる存在だった。

 けれど、僕の懐には、あの「十億」が眠っている。

 銀行から持ち帰った通帳が、上着の内ポケット越しに肌を焦がすような熱を持っている気がした。

「健一くん、どうしたの? 食べないの?」


 美咲が不思議そうに僕を覗き込む。


「……美咲。あのさ、驚かないで聞いてほしいんだけど」


 僕は周囲を一度見渡した。隣の席では大学生らしきグループが馬鹿騒ぎをしている。その喧騒を隠れ蓑にするようにして、僕は身を乗り出し、声を潜めた。


「宝くじ、当たったんだ」

 美咲は一瞬、きょとんとした。


「あはは、また。いくら? 三百円?」

「……十億」

 店内の空気が、凍りついたような気がした。

 美咲の動きが止まる。フォークから滑り落ちたペンネが、皿の上で虚しい音を立てた。彼女の瞳が、僕の視線を逃さぬように捉える。冗談を言っているようには見えなかったのだろう。


 僕は震える手で、通帳を開いて彼女の前に差し出した。

​ 彼女の視線が、印字されたゼロの列をなぞる。

 次の瞬間、彼女の瞳の奥に、見たこともない「光」が宿った。

 それは喜びというよりも、もっと生々しい、飢えた獣が獲物を捕らえた瞬間に見せるような、底知れない輝きだった。

「……すご……。これ、本当に……?」


 彼女の声が上擦る。


「ああ。だから、もう仕事も、お金の心配もいらないんだ。これからは、二人で……」

「健一くん、これ、すごすぎるよ! ねえ、もうこのお店出る?」

 彼女は僕の言葉を最後まで聞かず、立ち上がった。

 さっきまでの疲労の色はどこへやら、頬は上気し、瞳は爛々と輝いている。


---

 

 翌日から、彼女の変容は加速した。

 一週間後、再び会った彼女は、僕が知らないブランドのバッグを肩に掛けていた。


「ねえ、今日のディナー、ここに行きたいな」


 彼女がスマホで見せてきたのは、白金にある完全会員制のフレンチだった。コースだけで一人五万円。以前の僕たちなら、一ヶ月分の食費に相当する金額だ。

「……ちょっと高くないかな」


 思わず漏れた僕の言葉に、美咲は、まるで言葉の通じない子供を見るような、冷ややかな、それでいて憐れみに満ちた笑みを浮かべた。


「何言ってるの。十億もあるんだよ? 五万円なんて、健一くんにとっては一円と同じでしょ」

 その言葉が、心臓の奥をチクリと刺した。

 五万円は、五万円だ。かつて僕たちが一円を削って節約し、ようやく貯めた旅行代金の重みは、十億を得たからといって消えるはずがない。そう信じたかった。


 けれど、美咲の瞳に映っているのは、もう僕ではない。

 僕の背後に聳え立つ、巨大な数字の山。彼女はその山から、自分にいくら分け前が回ってくるのかを、一秒ごとに計算しているように見えた。

 レストランの豪華なシャンデリアの下で、美咲は最高級のワインをためらいもなく注文する。


 彼女がメニューを眺める横顔を見つめながら、僕はひどい寒気を覚えた。

 共有したはずの「秘密」は、いつの間にか、僕と彼女を繋ぐ鎖ではなく、僕たちの間に横たわる、底の見えない「深い溝」へと形を変えていた。

 彼女の笑顔が、以前よりも美しく、そして作り物のように不自然に見える。


 地獄の門は、僕の最も愛する人の手によって、ゆっくりと開かれようとしていた。

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