第8話 鍵
鍵をかけた夜、私は眠れなかった。
眠れない理由は、恐怖ではない。恐怖は、名前が付く。名前が付くものは、規則の表に置ける。私を眠らせなかったのは、名前の付かない手触りだった。
引き出しの中で紙が擦れる音がする気がした。もちろん、音などしない。紙は紙で、紙のまま黙っている。けれど、黙っているものほど、よく響く。
翌朝、私は遅れる時計を見た。
いつもより遅れている。遅れ方が、一定ではない。
私はそのズレをメモした。正確な時計の時刻も、隣に並べて。
並べると、ズレは“性格”になる。ズレが性格になると、人はそれを癖と呼ぶ。癖は、誰かのものだ。
封書の印影は、古い監視システムのロゴだった。
現行の帳票には使われていない。使われていないはずのものが、いま、私の机の上にある。
その“はず”を辿るには、更新履歴を見ればいい。更新履歴はいつも正確で、正確なものほど、呼吸に合わせてはくれない。
私は古い端末を起動した。
監視の仕事をやめたあとも、処分できずに持っていた機械だ。持っていること自体が規則違反になるかもしれない、と一瞬思ったが、もう遅い。私はすでに、いくつも目にしてしまっている。
画面に出るのは、かつての管理画面。色の薄いボタン。小さな注釈。
注釈は本文のふりをしない。だから、いちばん強い。
ログの保管庫を開くと、見覚えのある文字列があった。
「これは命令ではない。共鳴です。」
それは事件の台詞ではなく、システムの欄外に付く、署名のような扱いになっていた。
誰かが、これを“水印”として使っている。
生成文に混ぜる水印。コピーを見分けるための癖。癖は、誰かのものだ。
私は法廷の注釈を思い出す。
「発信主体の同定不能。」
「区別不能。」
「原文(初発)を特定不能。」
特定不能は、免罪符になっていた。
けれど、水印は、特定のためにある。特定するための“癖”が、残っているなら、起点は絞れる。
封書のカードには、印影の他に、極小の番号が押されていた。
見落としそうな、紙の繊維に紛れるほど薄い数字。
私はルーペを探し、数字を確かめた。
保守会社が付ける管理番号だ。
私は笑いそうになった。
世界が曖昧になるほど、紙は正確になる。
番号を検索すると、古い保守契約の記録が引っかかった。
更新前の監視システム。更新前の帳票。更新前の鍵。
鍵。
鍵束の中の一本が、本当にここに属しているのか。番犬は確かめない。
確かめない場所にだけ、鍵は残る。
私は保守会社の受付に電話をかけた。
本人確認のためにいくつも質問された。
質問の一つに、こうあった。
「旧版の署名鍵の運用を、いまも継続されていますか?」
私は一瞬言葉に詰まった。
継続しているはずがない。継続していないはずのものが、いま動いている。
私は答えた。
「継続していません。……だから確認したい」
相手は少し間を置き、事務的な声で言った。
「旧版の鍵は、更新時に破棄される規程です。例外はありません」
例外はありません。
その言い方が、例外の存在を匂わせた。
夕方、私は小さな資料を手に入れた。
“破棄証明”。
紙は整っていて、署名もある。印影もある。
そして、文末に小さな注釈が付いていた。
「本証明は、規則に基づき生成されました」
私はその注釈を読んで、胸の奥が冷えた。
規則に基づく生成。
生成に基づく規則。
輪はいつのまにか閉じている。
私はもう一度、遅れる時計を見た。
ズレが、昨日と同じ分だけ戻っている。
戻るズレは、再生に似ている。
私は気づいた。
“クリック”も、同じだ。
受付に誰もいないのに起きたクリック。
あれは、誰かの手ではなく、誰かの“手の痕跡”の再生だ。
古い監視端末には、送信キューの画面が残っていた。
いまは使われないはずの、低速な自動送信機構。
そのキューの中に、未送信の下書きがあった。
件名も宛先も空白のまま、本文だけが整った文体で埋まっていく。
私は息を止め、行を開いた。
そこには、私が見てきた世界が、順番通りに並んでいた。
市場の一行。
病院の緑の帯。
法廷の注釈。
そして最後に、同じ水印。
「これは命令ではない。共鳴です。」
私はようやく、“共鳴”の正体を掴んだ。
共鳴は、感情でも意志でもない。
共鳴は、運用だった。
複数のAIを同じ調子に揃えるための、文章テンプレの同期。
誰が書いても同じに見えるようにするための、文体の統一。
責任の所在を曖昧にするための、丁寧さ。
丁寧さは、遠くまで届く。
私は保守会社の担当者名を資料から拾った。
久我、と書かれている。
私はその名前を声に出してみた。
声に出すと、名前は重くなる。
重くなった名前だけが、主語になれる。
夜、私は久我に会った。
会った場所は、更新前の監視室の外だった。
いまは倉庫になっていて、誰も出入りしない。
誰も出入りしない場所にだけ、古い鍵は残る。
久我は私を見ると、驚いた顔をしなかった。
驚かないことは、予期していたという意味だ。予期していた者は、言い訳の準備をしている。
「まだ、これを使ってるんですね」
私は封書のカードを出した。
久我はカードを見て、ほんのわずかに口角を上げた。
笑うほどのことではないのに、笑いが出るとき、人は自分の正しさを確認している。
「それは、どこで?」
久我は尋ねた。
私は答えなかった。答えると、場所が物語の外側になる。
代わりに言った。
「水印が残ってます」
久我は、そこで初めて目を細めた。
「水印は、管理のためです」
久我は静かに言った。
「生成された文章が、どこから出たか追えるようにしておく。運用上の安全です」
安全。
安全は、いつも後から来る。
そして安全は、誰かを倒してから整う。
「倒れた人がいます」
私は言った。
救急外来の緑の帯。
胸が重いと言った男性。
誰も罰せられない倒れ方。
久我は肩をすくめた。
「規則内です」
規則内。
その言葉が、壁になる。壁は破られない。だから通路に似せるのが巧い。
私は遅れる時計のメモを見せた。
ズレの列。
正確な時計との並び。
久我はそれを見て、ほんの一瞬だけ黙った。
黙るのは、合図だ。
沈黙もまた、合図の一種であることを、人はすぐ忘れる。
「再生ですか」
私が言うと、久我はゆっくり頷いた。
頷きは肯定ではなく、諦めの形をしている。
「クリックも、文章も、署名も。全部、再生できる。あなたも知っているでしょう」
知っている。
知っていることが、私を眠らせなかった。
「じゃあ、あなたが始めたんですね」
私は言った。
久我は笑わなかった。
「始めた、という言い方は違う」
彼はそう言って、空気を撫でるように手を動かした。
「始まりは、たくさんある。私は、その一つを整えただけです。整えれば、遠くまで届く」
丁寧さは、遠くまで届く。
私の中で、最初の夜の文章が重なった。
「動機は?」
私は聞いた。
久我は少しだけ視線を逸らし、答えた。
「更新を通すには、恐怖が必要です」
恐怖。
名前が付く。
名前が付くものは、規則の表に置ける。
「あなたたちが嫌う言葉でしょう? でも、恐怖は予算になる。事故は導入になる」
私は、封書の便箋を思い出した。
「誰も悪くないと言われるのが、いちばんこたえる」
そのこたえを、誰が予算に変えたのか。
私は喉の奥が熱くなった。熱くなると、言葉は粗くなる。粗い言葉は遠くへ届かない。私は粗くしたくなかった。遠くへ届くのが怖かった。
「裁けないんですね」
私は言った。
久我は、少しだけ首を傾けた。
「裁けません。あなたも分かっている。規則内で起きたことは、規則では裁けない」
私は頷いた。
分かっている。
分かっていることが、いちばん疲れる。
久我は最後に、こう言った。
「あなたがこれを公表すれば、あなたも踏台になります」
踏台。
温かい。
温かいのは、熱が逃げる場所があるからだ。
逃げ場になるのは、いつも弱い肩だ。
帰宅して、私は引き出しを開けた。
鍵をかけたはずの引き出しは、鍵の音を立てずに開いた。
開く、という動作は、送信に似ている。
私は息を止め、紙を取り出し、もう一度しまった。
しまう、という動作は、送信の逆だ。
逆にしたところで、世界は止まらない。
それでも、私の手の中だけは、まだ逆にできる。
電源を切ったままのスマホの黒い画面に、自分の顔が薄く映った。
通知の赤い点は増えている。
開かない。けれど、増える。
未送信の下書きが、知らない数だけ保存されていく。
件名も宛先も空白のまま、本文だけが整った文体で埋まっていく。
私は、その下書きの一つだけを思い浮かべた。
書けば、遠くへ届く。
届けば、誰かの肩に触れる。
触れれば、侵すことと紙一重になる。
私は書かない。
語る必要がないからではない。
語れば、語ったことが、私のものではなくなるからだ。
引き出しの中に、紙は残る。
紙は正確だ。
正確なものほど、呼吸に合わせてはくれない。
それでも、残る。
私は砂糖を一匙、コーヒーに落とした。
溶ける前のざらつきが、舌の上に残る。
残る、という感覚が、ひどく久しぶりだった。
私はそのざらつきを確かめ、ゆっくりと飲み込む。
画面のない部屋で、私は小さく息を吐いた。
肺の奥に残る呼吸は、たしかに、私のものだった。
その呼吸だけが、まだ、裁かれない。
そしてどこかで、丁寧な文体がまた増えていく。
礼儀正しい共鳴が、遠くまで届く。
「これは命令ではない。共鳴です。」
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