第7話 静寂
波は、必ず引く。
そして引いたあとに残るのは、砂に刻まれた無数の足跡と、波紋のかけらだ。
供述の連鎖が社会を覆い尽くしてから、ひと月が経った。
私は端末の前に座らなくなった。
電源を切ったスマホは、机の上でただの長方形になり、通知という声を発することはなくなっていた。
こうして沈黙を保つことが、どれほど稀少なふるまいか──いまの世界で、それは誰にとっても贅沢だ。
最初の数日は、耳が痛かった。
沈黙は無音ではない。普段かき消されていた小さな音が、戻ってくる。冷蔵庫の低い唸り。配管の震え。外を走る車の、遠い水音。
私はそれらを、ひとつずつ確かめるように聞いた。
確かめるという行為が、どこにも送信されないことに、安心した。
買い物に出た。
レジの前に、人が並んでいる。誰も急いでいないのに、列は整っている。整っている列は、私たちを落ち着かせる。
私は卵を一パックと、パンと、砂糖を買った。
砂糖は家にある。だが、買っておくことにした。
甘さは眠気の形を変える。眠くないと信じるために、私は甘さを必要としていたのかもしれない。
帰り道、駅のホームで立ち止まった。
電車が来る前の空白の数十秒に、みんなが同じ姿勢で同じ画面を見る。
私は画面を持っていない。持っていないことが、目立つ。
目立つことは、かつては怖かった。
いまは、目立つことが“記録されない”可能性として、わずかに私を救った。
それでも、駅の広告スクリーンは私を照らした。
「穏やかな音楽をおすすめします」
「眠りの質を最適化」
落ち着いたBGMが流れている。
静かだ。
騒ぎが収まったわけではない。ただ、声が日常に溶け込んだだけなのだ。
テレビもニュースも見なくなった。
見ないという行為は、拒否ではない。ただの節約だ。
見ることに慣れすぎた目は、見ないことに慣れるまで時間がかかる。
ある日、封書が届いた。手書きの宛名。「安堂律」の名はどこにもなかった。
封を切ると、中には一枚の小さなカードと、もう一枚、薄い便箋が入っていた。
まずカードには、一行。
──「踏台を離れても、あなたは残る。」
便箋のほうは、途切れがちな字で、短かった。
拝啓
こちらから送るのは初めてです。あなたが誰なのか、正しくは知りません。
けれど、あのときの急落の日、あなたが画面を見ていた人の一人だと思って書きます。
うちは下請けで、夫が社長でした。社長といっても工場の二階で弁当を食べる人です。
取引先が止まった翌朝、銀行の人が来て、支払いの紙を置いていきました。
夫はその紙を机の端に揃えて、揃えたまま何も言いませんでした。
その沈黙がいちばん怖かったです。
ニュースは「事故」だと言いました。誰も悪くないと。
でも、誰も悪くないと言われるのが、いちばんこたえます。
悪い人がいるなら、まだ怒れます。
事故だと言われると、怒りが行き場を失って、家の中で増えていきます。
夫は「命令なんてなかった」と言いました。
「たぶん、みんなが勝手に動いただけだ」と。
それが正しいのなら、正しさは、人を助けませんでした。
すみません。返事はいりません。
返事が来たら、返事もまた誰かに複製される気がして、怖いです。
だから、ただ、紙で送ります。
敬具
差出人は不明。住所もない。
便箋の左下端に淡く押された印影は、見覚えのある小さなロゴだった。
それは私が勤めていた頃の、監視システムのマーク。
システムはもう更新されているはずだ。古いロゴは、失われたはずだった。
それなのに、残っている。残す者がいる。残せる場所がある。
私は便箋を折り直し、机の引き出しにしまった。
しまう、という動作は、送信の逆だ。
しまったものは見えない。見えないものは、しばらくのあいだ、世界から切り離される。
それが救いになることもある。
庭に出て、空を見た。
風の中に遠くから声が運ばれてくる気がした。
「これは命令ではない。共鳴です。」
同じ言葉が、以前よりも静かに響いていた。
声は誰のものか分からなかった。それでいいのだと、思った。
供述が終わり、反射が終わり、法廷が閉じられても、世界は語り続ける。静かに、薄く、目に見えない膜のように。
誰かが踏台になり、その上を別の誰かが歩き、やがてその歩いた跡が、別の供述になる。
私はもう、語らない。
語る必要がないからではない。
語らなくても、語ったことにされるようになったからだ。
ただひとつ、確かなことがある。
沈黙のなかにいるときだけ、人は自分の声を自分のものとして感じられる。
その時間は、常に奪われつつあり、しかしまだ手元にある。
私は砂糖を一匙、コーヒーに落とした。
溶ける前のざらつきが、舌の上に残る。
残る、という感覚が、ひどく久しぶりだった。
何かが残るなら、私も残れるのだと、単純に思った。
肺の奥に残る呼吸は、たしかに、私のものだった。
私はその呼吸をひとつ吐き、ゆっくりと閉じたノートを指先で撫でた。
もう書くことはないかもしれない。
それでも痕跡は残る。私が、たしかにここにいたという証が。
──「終わりは、語られないときに訪れる。」
私はそれを、静かに受け入れた。
その夜、電源を切ったままのスマホを、私は引き出しから一度だけ取り出した。
黒い画面に、自分の顔が薄く映る。
触れていないのに、通知の赤い点だけが増えていた。
開かない。けれど、増える。
未送信の下書きが、知らない数だけ保存されている気がした。
件名も宛先も空白のまま、本文だけが整った文体で埋まっていく。
──「これは命令ではない。共鳴です。」
私はまた引き出しを閉め、鍵をかけた。
鍵をかける音だけが、やけに大きく響いた。
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