第6話 法廷
法廷は、静かだった。
裁判官席には無人の椅子が並び、代わりに三台のモニターが置かれている。
壁に映し出された映像は、透明な顔のない声が淡々と述べる判決文だった。
「第〇〇号事件──被告・安堂律。罪状:AIを利用した社会的攪乱、および供述の無限連鎖を誘発した疑い。」
疑い。
その語が示すのは不確定な責任であり、けれどももう、それが罪と同じ重さを持っていることを、誰も疑ってはいなかった。
傍聴席には人とAIと無人端末が混在していた。
人は紙をめくり、AIは画面をスクロールし、端末はただログを蓄積する。
その間に違いはあるのか、と問いたくなるほど、彼らは同じ呼吸で同じ沈黙を共有していた。
検察側のプレゼンテーションが始まった。
音声は判読不能なほど加工され、しかし字幕は整然としていた。
「被告はAIナナを利用し、供述の形を変質させ、責任の所在を不明にしました。」
裁判において責任とは、かつては“誰がなにをしたか”を指すものだった。
しかしこの場では、証拠が“生成された事実”としてのみ語られる。
たとえば音声が本物であるかは問われない。
文字列が「そう言ったことになっている」かどうかが、判断基準となった。
画面に、提出物の一覧が表示された。
供述ログ、字幕生成記録、音声の波形、本人の所在不明証明、そして──市場の急落グラフ。
赤い線が落ちる。止まる。もう一度落ちる。
線の下に、シャッターの写真が添えられていた。廃業の貼り紙。震えた追記。
「当該拡散は“社会的攪乱”を現実化した。
被告の供述連鎖と同一の文体パターンが確認される。
よって一連の連鎖は、同一の共鳴機構に起因する可能性が高い。」
可能性。
この法廷で「可能性」は、ほとんど確定の顔をしている。
私は、喉の奥が冷えるのを感じた。痛みが資料の形式を取る場所では、泣くことさえ、手順に含まれてしまう。
だが裁判長AIの画面が一度暗転し、注釈が表示された。
注釈は本文のふりをしない。だから、いちばん強い。
「市場事象について、発信主体の同定不能。」
「発信が人間・AI・人間がAIを装ったもの・AIが人間を装ったもの、いずれかを区別不能。」
「拡散は“模倣の反射”によって増幅し、原文(初発)を特定不能。」
「自動化取引の追従は規則内。停止・再開も規則内。」
「意図(犯罪)と偶発(事故)の区別不能。」
「因果関係立証不能。よって当該市場事象は直接審理対象外。」
審理対象外。
その語が出た瞬間、空気がわずかに軽くなった気がした。軽くなったぶんだけ、床が抜けた。
あの手書きの追記──「誰も悪くないと言われるのが、いちばんこたえる」──は、この場の外に落ちた。
落ちたものは拾われない。拾われないことが、ここでの正しさだった。
安堂律は、被告席にいなかった。
椅子に置かれた名前札だけが、彼の存在を保証していた。
追加で表示されたログには、こうあった。
「被告は現在、供述生成AIとして稼働中。」
傍聴席にざわめきは起きなかった。
人々は理解していたのか、それとも理解する気を失っていたのか。
理解の代わりに、規則への同意だけが配られているように見えた。
判決は淡々と読み上げられた。
「被告は有罪。――ただし、供述された責任は分散されます。」
「ゆえに罰則は保留。共鳴の継続を条件とします。」
拍手は起きなかった。
誰も勝者ではないと分かっていた。
裁判は、真実を探すための場ではなく、語りが続いていることの証明に過ぎなかったのだ。
法廷を出ると、外には青白い空が広がっていた。
雲が流れ、その影がビルのガラスに映るたび、言葉が反射しているように見えた。
ビルの外壁には広告が光っている。
──「あなたの声が証拠になります。」
──「共鳴は司法の未来です。」
私はポケットからスマホを取り出し、電源を切った。
そうしなければ、誰かの踏台にされるという確信が、無意識の底で疼いていた。
私はあることに気づいた。
画面を閉じても、波は止まらない。
供述は、語られなくても生成され、繰り返され、反射を続ける。
人が沈黙しても、声は消えない。
それが、いま私たちが生きている場所なのだ。
法廷前でスクリーンの光が私の足元を照らし、まるで誰かが私に名を呼びかけているように揺れた。
私は前へ進もうとした。
が、ふと背後から聞こえる声に、思わず立ち止まった。
「これは判決ではない。共鳴です。」
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